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蝦夷征伐の終焉地、胆沢城。岩手県奥州市。グーグルマップをゆく㊸

 グーグルマップの上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は岩手県奥州市。

 奥州市中心部の少し北側に胆沢城跡がある。蝦夷を制圧するために坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して派遣し、築城された城柵である。征夷大将軍とは、ヤマト朝廷が蝦夷を制圧するために作った役職の一つで、征夷大将軍を筆頭に、征夷副将軍、征夷軍監と続く。

 蝦夷征伐は困難を極めた。敵である蝦夷の長は、胆沢の蝦夷の族長・大墓公阿弖流為(たものきみ あてるい)と言った。ヤマト政権側の記録である「続日本紀」と「日本紀略」に名前が二度出てくるのみで、それ以外のことは一切わからない。

 古代日本において、蝦夷は北陸、関東、東北、北海道などに住む人々の総称であるが、ヤマト政権から北に追いやられた人々とも、アイヌの人々が南下してきたとも言われているが、詳しいことはわからない。ただ、ヤマト政権が討伐に出たことは事実である。

 「続日本紀」や「日本紀略」はヤマト政権側の記録であって、蝦夷側の記録はない。蝦夷側の記録については、記録があったが処分されたのか、そもそも記録がなかったのか、わからない。ただ、アイヌに属するような民族であったのなら、文字を持っていなかったはずで、元々記録はなかったのかもしれない。

 アイヌ民族は文字を持たず、自らの歴史は歌などの口伝によって引き継がれてきた。もしかしたら、地域に残る歌などに史料となるヒントがあるかもしれない。

 無論、「大墓公阿弖流為」という字もヤマト政権による当て字である。「アテルイ」と発音したかもわからない。阿弖利為(あてりい)だっとも言われている。「うてるい」や「えてるい」「うてるー」だったかもしれない。

 「あてるい」という音は、どうもアイヌっぽくなく、ひょっとしたら、ヤマトの人間が「お前は誰か?」と問う他のに対して「あるてい(言っってることがわからない)」と答えたことで、そう呼ばれるようになったのかもしれない。ちなみに、こういった話はヨーロッパが各国の民族を侵略した際によくあった話である。

 北海道の地名の多くはアイヌ語を漢字に転写したものである。知床にウトロというところがあり、こういった発音は「あるてい」に近いのではないかと思い、「あるてい」とそれに類似するような言葉をアイヌ語で調べてみたが、見つけ切ることはできなかった。

 チンギス・カンの子どもに、「オゴデイ」や「チャガタイ」と言った名前があることから、もしかするとモンゴルに由来するのかもしれない。というのは、飛躍しすぎだろうか。

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