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一遍上人をたずねて①

 ひょんなことから一遍上人について調べることになり、ここ一年ほど彼について調べている。

 鎌倉期の僧で、踊り念仏を広め、のちの盆踊りや日本の伝統芸能に影響を与えた時宗の開祖。というのが一般的な一遍上人の説明だろう。

 彼の生涯を表した「一遍聖絵」などをみると、数十人の僧が櫓の上で踊る形で踊り念仏は表されている。これ見て私は今で言うところのクラブなのではないか?と思い、不思議な興味とともに一遍上人に対する興味も芽生えた。

一遍聖絵

 一遍上人は、1239年に伊予で生まれた。房号が一遍であり、法諱は智真である。伊予の水軍である河野氏の出身で、13歳の時、九州の浄土宗西山派の聖達に預けられる。25歳の時、父親が亡くなったため伊予に戻って還俗し、妻を娶って武士として過ごしていたが、36歳の時に再び出家し、妻と子を置いて全国を旅して周り1289年に50歳の時に神戸で生涯を終える。

 これがおおよその一遍上人の生涯である。僧が全国を旅して周ることを遊行というが、一遍上人は遊行上人とも呼ばれており、遊行の大きな目的は、賦算と呼ばれる「南無阿弥陀仏」と書かれたお札を人々に配ることであった。

 では、「踊り念仏」は一体何だったのであろうか。一般的なイメージとしては、「南無阿弥陀仏」を唱えながら、陽気に踊っているところを想像されると思うが、それは幕末に流行した「ええじゃないか」と混同されていると思われる。

豊饒御蔭参之図

 一遍聖絵には、踊り念仏の様子が描かれているものの、一遍上人の踊り念仏というものが伝わっている様子がない。現在も時宗において踊り念仏は行われているのであるが、どうも、一遍上人によって考案された踊りではないようなのだ。全くもって雲をつかむような違和感がある。

 「踊り念仏を広めた」とはどういうことであろう。踊り念仏を「作った」ではないのか? もし、一遍上人自身が振り付けなどを考案したものであれば、踊りの型や手順などを残しておかないだろうか。アーティストであればそうするであろうし、少なくとも日本の伝統芸能と呼ばれるもののほとんどはそうである。

 イマイチ、よくわからないことばかりで、私は一遍上人が気になって仕方がない。こうして、私の一遍上人における踊り念仏への探究の旅が始まったのである。 



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