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津軽の幻の都。青森県西津軽郡。グーグルマップをゆく㉜

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は青森県西津軽郡。

 津軽は、元々「津借」と書き、蝦夷が松前から渡って津を借りて住んだといういい伝えによるものであるが、その他にも、津刈,都加利,都加留,津加呂,東日流,東鍛流,東海路とも書き、呼称の音が先にあったものであろう。

 西津軽郡鰺ヶ沢町に日照田高倉神社という神社があり、十一面観音が祀られいてる。明治以前までは飛龍宮といったらしい。坂上田村麻呂によて創建されたと伝えられている。古代国家では、領地には郡を置いたが、この辺りには群を置かず、蝦夷地として扱った。坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、東北を管轄する立場であった。

 奈良時代、十一面観音は密教とともに日本に持ち込まれた。当時は病気治癒や現世利益などを祈願するためにあちこちで祀られた。つまり、流行ったということである。

 十一面観音観が若者に姿を変え農作業を手伝ったとの伝説が残っているが、これは本地垂迹思想という仏や菩薩が人々を救うために神の姿を借りて現れたという仏教と神道を融合させた考えであり、平安末期から広まっていく思想である。それゆえ、後付けによるものだろう。

 以前、大仙市の会でも書いたが、蝦夷征伐の争いは弘仁二年(八一一年)には終結しており、その後は民夷融和政策という蝦夷との身分の差の解消を図るための政策が講じられており、交渉や話し合いなどが行われていた。

 そういったことを前提に、坂上田村麻呂が日照田高倉神社を創建したということについて考えた場合、何を意味したのだろうか?

 古代において「宮」とつくところは、朝廷の屋敷を意味した。つまり、「飛龍宮」とは、「ひりゅうのみや」と読み。蝦夷と話し合いの末、平和が訪れたあかつきには、ここに都を置くつもりだったのではないだろうか。

 坂上田村麻呂は、陸奥国胆沢城を造営した人でもある。胆沢城は国府として軍事・行政拠点として造営されたものであるから、飛龍宮もそのような機能を念頭に置いて創建されていたとしても不思議はない。幻の都「飛龍宮」悪くないのではないだろうか。

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