プロレスに詳しい人の意見を聞きたい、昭和プロレスの「ん?」その1

         序文

 本稿は、いわゆる昭和プロレスについて、個人的に「ん?」と引っ掛かりを覚えたり、疑問に感じたりしたことを取り上げ、膨らませた想像・妄想を綴っていこうというものになります。
 とは言え、筆者自身がプロレスを観始めたのは初代タイガーマスクのデビューの約一年と三ヶ月前であり、“新日本プロレスブーム前夜”と呼べる頃。それ以前の昭和プロレスに関しては、後に専門誌やビデオソフト、インターネットなどで接するレベルにとどまります。
 リアルタイムで経験していない時代の某かをテーマにする場合は、できる限り資料を当たり、できる限り“ほんとっぽい”想像・妄想になるように努めます。が、それでも思い込みや参照不足等で的外れなことを書くケースがないとは言い切れません。そんな折は、広い気持ちでご笑覧してもらえれば幸いです。


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『デビッド・フォン・エリックがUN王者のままだったら天龍は一発で奪取できたか?』

 最初に取り上げるテーマはなるべくタイムリーなネタがいいのではないかということで、エリックにしました。
 何がタイムリーかというと、映画「アイアンクロー」が話題になっているようです。悲劇のプロレス一家という風な表現をされることが多いフリッツ・フォン・エリックファミリーに関する物語を、次男ケビン・フォン・エリックの立場から描いた内容だそうで、いずれ観賞したいものです。

 この項では、エリック一家を見舞った悲劇の一つ一つに触れることはせず、一九八四年2月に、全日本プロレスのエキサイトシリーズ参加のために、UNヘビー級王者として来日した三男デビッドが、開幕戦前日に急死したことのみを記すにとどめます。

 デビッドは2月23日蔵前大会で天龍源一郎の挑戦を受ける予定になっていましたが、亡くなったため、試合は急遽参戦のリッキー・スティムボートと天龍による王座決定戦に変更、天龍がピンフォール勝ちでタイトル獲得。
 同日はジャンボ鶴田がニック・ボックウィンクルを破り、日本人初のAWA世界ヘビー級王者になるという記念すべき日でもありました。さらに付け加えると、マイティ井上もチャボ・ゲレロのインタナショナルジュニアヘビーに挑戦、この日は敗れるも三日後の大阪大会での再戦でタイトル奪取に成功しています。振り返ってみると、日本勢三人がタイトル獲得するのは既定路線だったと考えられます。言い換えるなら、たとえデビッドが健在でタイトル戦に出ていても、天龍が戴冠していただろうと。

 ただ、大分年月を経て知ったことなのですが、デビッド・フォン・エリックは直近のNWA総会において、次の世界ヘビー級王者になることが決まっていた(フレアーの自伝での記述や専門誌GスピリッツVOL.57における佐藤昭雄の証言等)そうです。一九八四年4ないし5月にエリック一家の本拠地テキサス州ダラスで開催されるビッグマッチにて、リック・フレアーから奪取する手筈になっていたと。
 これが事実であれば、果たして天龍は、世界王者になる二ヶ月前のデビッドから、UNを取ることができていたのか?と疑問を感じざるを得ません。というのも、天龍の師匠で全日本プロレスの創始者であるジャイアント馬場はプロレスにおける格を非常に重んじるタイプとして知られています。そんな“ボス”が、まだシングルのベルトを巻いた経験のなかった天龍を、近い未来の世界王者に勝たせるか?というと、普通に考えればノーでしょう。

 では最初からこのエキサイトシリーズにて、天龍UN奪取は予定されていなかったのか?というと、それもおかしい気がします。
 当時は佐藤昭雄による強い日本人エース作りや若手の起用等、全日本内の改革が進んでおり、天龍の格上げ・シングル王座獲得も至急命題だったはず。すでに前年十月に二度、その時点のUN王者テッド・デビアスに挑戦し、一敗一分けで終わっている天龍に、ここでまた足止めを食わせるのはきついし、鶴田と井上には階段を登らせ、天龍のみ待ちぼうけを食らわせる理由が見当たらない。
 また、テッド・デビアスは天龍にとってプロレスデビュー戦の相手であり、手の合うライバル。そのデビアスに勝ってベルトを巻くというストーリーは定番ではあるけれども決して悪くはない。にもかかわらず、デビアスは米国でマイケル・ヘイズに敗れて王座転落(時々ある架空の試合によるタイトル移動ではなく、実際に行われた記録あり)、そのヘイズを破ったデビッドが来日という入り組んだお膳立てをしておいて、天龍がタイトルを取れないなんて、じゃあどういう筋書きを描いていたの?となる。

 そんな二律背反めいた状況を、いかにすれば丸く収められるか。あれこれ考えて、ひょっとしたらこういうストーリーを目論んでいたのではないかと妄想したのが、次になります。
 二月の蔵前大会で天龍はデビッドから王座奪取。ただしきれいなピンフォール勝ちなどではなく、際どいリングアウト勝ち(前年、鶴田がブルーザー・ブロディからインターナショナルヘビーを奪ったときのような)。大阪大会でリターンマッチを行い、引き分け防衛。そして五月。NWA世界王者となったデビッドが、全日本プロレスのスーパーパワーシリーズに参加(史実では、デビッドの代わりに“デビッド追悼のはなむけ”としてフレアーに勝った四男ケリー・フォン・エリックが世界王者として参加)。来日第一戦でデビッドは天龍をチャレンジャーに迎え、鉄の爪アイアンクローで大流血に追い込み、レフェリーストップで完勝、リベンジ達成。そしてAWA世界王座を二度に渡る長期海外遠征で守り抜いた鶴田(史実では二度目の遠征の最終戦で、リック・マーテルに敗れて陥落)と、史上初のNWA・AWA世界ダブルタイトルマッチを行い、ドローで両者防衛……と、こんな風に展開するつもりだったのでは。
 これなら天龍がくさることもないでしょうし、デビッドの顔も立つ。もっとデビッドに箔を付けたければ、同シリーズに参加していたフレアーかハーリー・レイスの挑戦を受けて、完勝防衛を果たせばよいかと。

 さて、デビッドのNWA戴冠についてはもう一つ、ん?となることがあり、軽く触れておきます。
 デビッドは一九八二年後半の時点で一度、NWA王座に就けておこうという動きがあったけれども、まだ若いからというのとその後体調を崩したのとで取りやめになったという話がGスピリッツVOL.57に出ていました(P22)。
 その前年、一九八一年にはデビッドが兄のケビンとともに5月、全日本に二度目の参加を果たしています。このときは兄弟でアジアタッグを奪取する功績はあったものの、最終戦で石川隆士&佐藤に奪われている。翌年NWA世界王者になる予定があったデビッドが、石川&佐藤組に負ける……うーん。一九八二年春にミズーリ州王者として来たときのケリーにしても、防衛戦で石川には大善戦され、天龍とはやや押され気味のドロー。
 思うに、ジャイアント馬場にとって、デビッドを含めたエリック兄弟は自身のライバルだったフリッツ・フォン・エリックのせがれ達に過ぎず、大物扱いしたくてもいまいちその気になれなかったのかなと。
 もしもデビッドがNWA世界王者として長期政権を築いていたら、また違ってきたのかもしれません。

 それでは。


「その2」はこちら。


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