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無用の用。。

荘子さんより、「無用の用」について個人的に思い浮かんだことを書いてみたいと思います。

荘子の人間世篇に、大木の話があります。
簡単にお話しますと以下のような内容です。

大工の棟梁と弟子が旅をしていた際、
とっても大きなくぬぎの木を見ました。

しかし棟梁は無関心に通りすぎ、それについて弟子は、
「立派な材料なのになぜ、行ってしまうのですか」と聞きます。

棟梁は理由を説明し、「あれは役立たずの木だからあんなに大きくなるまで成長したんだ」というようなことを言います。

旅から帰った後、棟梁の夢にくぬぎが現れて語りかけ、
「あなたは私を何と比べて無用というのですか。果実のなる木や人の役に立つ木と比べたのでしょうが、それらの木は役に立つがゆえに果実を取られたり、枝を折られたりして生命を縮めているではないですか。あなたたちに無用であることが、私にとっては用なのです。もし私が役に立つ木だったら、こんなに大きくはなれなかったでしょう。」

このお話から、わたしも自身の価値観を見つめて、それに沿って歩んでいきたいなと感じました。

私自身学生時代など、自身がどういう価値観を持っているか、何を大切にしたいかを考える機会をあまり持たずにやってきて、ただとりあえず一般的(とわたしが思っている?)に言われる優秀な人、優等生でいようとしていました。
そうでなければいけないんだ、、と思い込んでいたところもあったように思います。

先ほどのお話と関連付けて言いますと、
なぜだかわからず全く腑に落ちていないけれど、なんとなく流されるように役に立ちそうな木を目指していたようなものだったと思います。
つらいな~と思うことが多かったように思います。。

押し付けられたように感じたり、「君はこういう木になりなさい」、
「あの木はあんなに役に立つじゃないか」、「あの木に比べて自分はなんて、、」などなど、自身の妄想も含め、いろいろな気持ちが出てきていました。

ただ、何かの役に立つ木になることが、悪いことだとは思いません。。
それで誰かの役にたてて、やったー!嬉しい!という木も素敵だなぁなんて思います。
優しく周りを優先して、気が付いたら自分を削りすぎていた、、
なんてことには気を付けてほしいな、、なんて想像します。。

そして、そもそも自身がどういう木なのかわからないかも、、とも思います。。
木も成長とともに変わってもいきますもんね。。

こういう木になるぞ!!というのも楽しいかなと思いますが、
周りとの関係や、大切な人たちとの関りを大切にしながら進んでいく中で、
その方達の栄養をいただきながら成長していき、
「あ、自分こんな感じの木だったんだ。。」と振り返ってみて気が付くのもなかなか味わいのある感覚がします
(曹洞宗の開祖、道元禅師の、正法眼蔵・現成公按にもこんな感じのことがあったかも、、と思いましたがそれはまた違う機会に書いてみたいです)

役に立つか立たないかはよくわからないけど、なんかあの木面白い生え方してるなぁ、形もどことなく芸術的!?、みたいな木になれたら面白いなと、
時々振り返りながら進んでいきたいです。。

木って、いいですよね。。笑

それでは失礼いたします!








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