こうせい

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人生終わりではじまった

僕は全部怖くて、嫌になって、大学に行かなくなった。 レールを踏み外したことがないことだけが取り柄だと思っていた。 だから、もう自分のいる意味がなくなったと思った。 長く休んだけれど、僕なりに考えて考えて、もう一度行き始めてみた。 友人と久しぶりに再会し、近所の食堂にお昼ご飯を食べに行った。 500円の定食はあの頃と同じで、相変わらずおいしかった。 僕は彼に、「もうあの時人生終わったと思った」と言った。 彼は、「そこから人生始まったんじゃない?」と言った。

    • 哲学者

      明治36年、藤村操という当時18歳の青年が、 「世界の真相、生きている意味を知ろうとしたが、哲学はついにそれを教えてくれなかった。だから僕は死ぬことにした。」といったような言葉を木に削って書き残し、日光の華厳の滝に飛び込んで自ら命を絶った 16歳 友人と僕は、一緒にこの世から出ていこうか、といった話をしたことがありました しかし、彼とは今も楽しく喫茶店に行ったり、おいしいものを食べに行ったりしています 最近彼は、好きな漫画のキャラクターの言葉を引き、 なぜ生きる方を選ぶ

      • 描く私

        個性や「私」ってなんでしょうか 「自分らしく」と言われても、何が自分らしいのか、 小さいころに図工で作った作品を見ると、 「魚が好きだったんだな」とか、「青が好きだったのかな」とか、 「元気な子が作ったんだろうな」といったことが想像されてきます。 どう歩いていけばいいのかわからなかった 生きることにまで公式を求めていました 大好きな人たち、大切なものたちとのつながりが染み込んだ心から、 自分の「価値観」という色をとりだして、 自身の「選択」という筆を執って、 私という白

        • この平穏

          早朝の川で見かける水鳥たち 電線に仲良く並んでいる小鳥たち ふと窓から見える木々のざわめき 西日の差す公園のブランコ 小道に佇む猫 感覚的な喜び、意味の追求、多様な経験への好奇心 これに加えて、動くことのないこの平穏は幸福の仲間でしょうか しかし、幸福と呼んだ瞬間に逃げていくよう 私が私であって、同時に周りの空気と親密な時、それらの感受 先生、私が存在しているのではなく、存在が私しているとは、 この味わいでしょうか。 わかりません でも、気持ちがいい

        人生終わりではじまった

          鷹とホトトギス

          中島みゆきさんの曲、「鷹の歌」の歌詞に、 「恐れるなかれ生きることを、鷹の目が見つめてきた」 というものがあります。 正岡子規さんの著書、「病床六尺」の中の言葉に、 「禅宗の悟りという事は、如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きていることであった」 というものがあります。 僕はずっと、死ぬことが怖いのだと思っていたら、生きることが怖かったのだと、そう思いました。 気付いたら生まれちゃっていて、ふとした

          鷹とホトトギス

          泉のような

          自然の動物たちは、近寄ると逃げるのです。 どれだけきれい、かっこいいといわれる人たちであったとしても。 でも、動物たちはみんな泉に寄って行って、水を飲んだり、休んだり。 泉は何も言いません。 「来ないで」とも、「行かないで」とも。 泉には、自分の姿が映ります。 泉は何も押し付けません。 私が私と出会うのです。

          楽しい予定

          あら、 気付いたら生まれていましたね 生まれた時からあなたとずっと一緒 自分さん いつもありがとね 友達には優しく言えるのに あなたにはひどいことばかり言ってきたよね ごめんね でもね、誰も褒めてくれない時も 誰も気づいてくれなかった時も あなたが頑張ってきたことも ずっと見ていました 「こんなの全然だめだ」「みんなもっとすごいし」 「自分なんて」「全部僕のせい」 まったく優しくて、君らしいですよ でも、苦しかったよね いろいろな道を通ってきて そ

          木はすごい

          木はすごい いつも黙って立っている 切られて折られて登られて 落書きされても黙ってる 本当に黙っているのかな 木の声が聞こえたら 何を話しているのかな きっと優しい声だろう だけど本当は 弱音も言っているかな 話を聞けたらよかったな 土の中では手を つないでいるのかな 木はあきらめない 傷からまた手を伸ばして 元気をくれる 木はすごい

          木はすごい

          ぼくはぬかづけ

          生きている時って、ぬか漬けみたいなのかも。。 そんな風に感じたことがありました。 「自分」て何なのかな、、そのように考えることがよくあります。 「これが本当の自分だ!」と考えると、 じゃあその、これが本当の自分だ!と考えた自分は何なんだろう。。 とか、、 よくわからなくなってしまいます。。 そんな時に、自分てなんだか、ぬか床みたいな感じなのかも。 そう思いました。。 自分が、好きな人たちや、楽しいこと、大切にしたいことに日々触れていくと、その味や風味が自分にしみこんでき

          ぼくはぬかづけ

          のだめさんと僕のシーサー

          「自由に楽しくピアノ弾いて何が悪いんですか、、」 ドラマのだめカンタービレ中、のだめさんのそのセリフを耳にしたとき、 ある思い出がふと浮かんだのです。 それは高校の修学旅行でのことでした。 修学旅行先は沖縄で、日程は2泊3日 1日目はみんなで行動し、2日目は自分たちで計画を立て、 班に分かれての行動でした。 2日目に僕たちの班はシーサーづくり体験をしました。 まずは、体験工房のスタッフの方がお手本として、粘土でシーサーを作る手順を教えてくださり、次にみんな思い思いの自分

          のだめさんと僕のシーサー

          僕の道に落ちる

          僕のいつもの散歩道には、高い橋があります。 下にはきれいな川が流れ、周囲は田んぼや山々に囲まれています。 朝には鳥たちの声がたくさん聞こえ、夕方には西日がとてもきれいです。 夕焼け空の下で橋の上を歩いていると、ふと橋から下を見下ろすことがあります。 そこにはきれいな川が流れ、ごつごつした岩があり、すぐにその高さから背筋が寒くなり、鳥肌が立つのを感じます。 少し身を乗り出すと落ちてしまいそうな感覚や、見ているとなんだか吸い寄せられそうです。 見ていると、落ちていく瞬間のイ

          僕の道に落ちる

          夢と車輪の下

          少し前に怖いような何とも言えない夢をみました。 普段夢の内容はすぐに忘れてしまうのですが、この夢のことは覚えていました。 次のような夢です。 (少し過激な部分があります) 気が付くと僕はどこか広い中庭のような場所に立っていました。 肌寒いくらいの季節で、冬が迫っている秋のよう、 時間帯はまだ明るく、夕方くらいでした。 地面は一面枯れた芝生がひろがっていて、 西洋風のきれいな建物が立ち並んでいる敷地でしたが、 雰囲気的には収容所のようで、怖いなと感じていたように思います。

          夢と車輪の下

          クリスマス

          朝早く、いつものように散歩をしていると、寒いにおいがした 心地よい寂しさのようなにおい 確かに少し肌寒い このにおいからは、なぜだかクリスマスの風景が浮かんでくる なぜだろう でも全然いやなにおいじゃない なんでかな だれか知ってる

          クリスマス

          無用の用。。

          荘子さんより、「無用の用」について個人的に思い浮かんだことを書いてみたいと思います。 荘子の人間世篇に、大木の話があります。 簡単にお話しますと以下のような内容です。 大工の棟梁と弟子が旅をしていた際、 とっても大きなくぬぎの木を見ました。 しかし棟梁は無関心に通りすぎ、それについて弟子は、 「立派な材料なのになぜ、行ってしまうのですか」と聞きます。 棟梁は理由を説明し、「あれは役立たずの木だからあんなに大きくなるまで成長したんだ」というようなことを言います。 旅か

          無用の用。。