神風特攻の戦術的価値の大きさと、特攻隊員の命の重さは無関係と言う話

 神風特攻で命がどうと言う話をするときに、その戦略的戦術的価値は無関係だ。
 戦術的或いは戦略的な価値があったとして、では人を殺す為に自分の命をなげうつと言う行為を、国の指導でやらせていいなどと言う事は決してない。

 これはこの悲劇的な歴史から学ぶべき第一のことだ。

 こういうところで、その攻撃の価値があるとかないとか言うのは、歴史研究として重要ではある。
 それが仮にその行為自体に価値があるとかないとかした所で、尊い犠牲があったのだと言う事は変わらないし、その計画を立てて実行した軍や政府の非道が増減する事はない。
 むしろ、こういう時に、「彼等の行動が無駄だったから馬鹿だったのだ」とか「米軍を酷く警戒させたので戦略的な意味があり、それ故に彼等の犠牲は無駄ではなかったのだ」と言う発言は慎むべきである。
 もっと言えば、こういう行為を自分の価値観の援用に使うのは恥ずべき行為である。それは所謂左翼的な立場でも、右翼的な立場でも同じである。

 人間の命の価値を、そのような計算出来るような価値で推し量るべきではない。

 人権とは、人間の価値は、人間が生まれながらに等しいと言う考えに立脚している訳で、自分の立場や価値観でそれを多いとか少ないとか言うのは、恥ずべき行為だ。

 歴史的事実と、そこで失われた命は本質的に無関係だから、それぞれは別々に考えるべきだし、考えられることなのだ。

 貴方自身も、そのような単純な数値や価値観で、貴方の人生や命を数えられたくはないだろう?
 トリアージの時に、年収を聞かれたらどう思う? 社会的地位の高い人間を優先的に治療されたらどうする?
 既に亡くなった人々の価値を得意気に評価するのだから、今生きている人間についてだけは、公平に考えるなんてできるだろうか?

 もう少し冷静に、そして良識を持って考えて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?