原発事故数キロの街 被害者ポジション

「感情の劣化」
昨今広がる保守活動を批判して数年前、社会学者宮台真司氏が週刊紙インタビューに答えた。

彼の昨今の口汚さは目に余るものがあるが、彼が指摘しているポイントは押さえねばなるまい。

同時に彼は左派の一部を「クソフェミ」
右翼の一部を「ウヨブタ」と罵ってきた。

どちらにも彼が指摘しているのはコミュニケーション能力の欠如であり、双方ともコミュニケーションが下手である。下手であるがゆえに、被害者ポジションを取りにいき、それ以上の議論を避けたがる傾向が見受けられる。

被害者ポジション……

とても都合のいい言葉だ。これを身にまとうことで、その後の議論は感情論に終始し、建設的な議論はおろか、論破することもない。つまり被害者ポジションをとることは議論を避け、相手に自分の意見を無条件で受け入れさせる極めて非文明的、非近代的な行為なのだ。

彼らは議論において、まずマウントをとりたがる。ここでいうマウントとはつまりは前述した「被害者ポジション」

彼らは決して議論を望んではいない。被害者を装い、無条件で自分の意見を押し付けたいだけだ。

其処には「知性」「品格」ましてや「人間性」は皆無であり、一時的な感情、情動とも言っていいものがあるだけだ。原始的で単純、そして極めて稚拙な見にくい情念の溜まりがあるだけである。

前段が長くなったが、本題に入ろう。

とある町。あの原発事故現場から数キロのところにある正に「作業員の街」今となってはそんなところだ。

地元民は数えるほど。人の復興にはほど遠い出稼ぎ労働者の最前線。しかし、昨今では地元民がちらほら目につくようになった。復興目当てか、他に行くあてがないのか定かではないが、とにかく多からず地元民はいる。

震災当初、様々なニュースがあった。
いわきのスーパーで買い物に並んでいたら、仮設住宅のおばさんに割り込みをされ、注意したら
「あたしは避難民よ。優しくないわね!」
と怒鳴られた。
また、山形県の避難所で炊き出しをしていたら、
「俺は避難民だ。もっとうまいもの食わせろ」
と罵倒された。

どれも実話であり、ニュースで報道された。その後、どんなことが起こったかというのは……

「被災者帰れ」

いわき市の市役所にこの落書きが書かれた。

また、車に悪戯、落書き、地元民と被災者との隔たりはどんどん乖離していった。

当時、自分の感情としては地元民の迷惑についてはとてもよく共感できた。原発から同心円で引かれた距離によって保証も補助も賠償も違う。今思えば、嫉妬にも似た感情があったと思う。だが、それに油を注いだのは一部の避難民であったことは否定しがたい事実だ。避難先の温泉で毎晩どんちゃん騒ぎなど、当時、嫌というほど聞いたものだ。自分は避難後1カ月で福島に舞い戻って来て仕事の準備をしていた。しかし、一部の避難民は原発事故を楽しむように受け入れ先の感情を逆なでしてきた。その結果が上記の画像である。

しかし、原発の被災者は手厚い保証と賠償にどっぷり使った人間はやがて腐る。自分はそれを嫌というほど見てきた。


保証がされればされるほど、其処の中の常識に染まる。そしてやがてぬけだせなくなる。程度こそあれ、僕らは麻薬中毒者とおなじだ。多かれ少なかれ、保証や賠償は手にしている。しかし、原発に近くなればなるほど異常性をもった地元民が多くなるように、どっぷりと賠償金漬けになった中にはさも自分が世界の王であるかのように振る舞う輩がいる。

それは「震災クロニクル」に書いてある通りだ。庶民感覚とまでは言わないが、最低限の社会性や物事を考察する上で感情論に流されない論理的妥当性、公平性を彼らは持たない。客観よりも主観が常に優越するのである。

精神的なものは誰も測れない。それをいいことに彼らは原発事故をダシにして議論でマウントをとることに慣れすぎてしまったのだ。

町にはコンビニエンスストアが数件ある。彼らは利用客としてそれらを利用するが、まさに「モンスタークレーマー」そのものである。

店員の態度が気に入らない。

店員の口の利き方が悪い → 聞き違いであるかもしれないのに、自分の感性の身にしか従わない。結果、聞き違いを認めない。

店のルールを守らない。

もっとも忌むべきものは、「議論を避け、陰口に終始する」である。言っておくが、今回の話題にする浪江町民は50~60代の女性である。

ある日、彼女は家族連れで町内のコンビニエンスストアに来た。「新しい生活様式」が叫ばれている中、5人ほどで来店。買うものがすべて決まらないまま、彼女ともう一人のツレの女性がレジにくる。

店員につっかかる彼女の態度はどうであったか。

レジに携帯を投げ捨て、画面を読みこめとも言わず、五月雨式に品物を数人で持ってくる。結果、レジ台がお祭り騒ぎ。スキャンしたかどうかも分からない。アイスコーヒーのカップも分からない。案内の話も聞かない。

全ての品物を入力した後、

「読んだ?」

ぶしつけに話した。そもそも日本語かどうか怪しいくらいに。

店員は「読みました」と返答した。その態度が気に入らないらしい。

ここまでの話を時系列に整理しよう。

1.そもそもレジで会計する前に買うものを揃えておくのは常識。→被災者だと違う常識なのかもしれないが。

2.後ろに並んでいる人の迷惑を考えない。これは1.に関連するが、あとの客が待っているのを彼らは知らんぷりである。

3.クレームを当事者間で言わず、対応の訂正を要請することもなく、あとで激怒したという。→感情を抑えきれないのは精神的な幼さの表れ。もしくは聞き違いかもしれないというところまで考えが及ばない浅はかさ。

4.五月雨式のオーダー→そもそもコンビニエンスストアでこの種の客はマナーが悪いと分類される。

1~4までを鑑みるとこの女性客がいかに主観で生きているかが分かるだろう。被災地でこういう地元民を見ると、自分は決まって「被災者中毒」を思い返す。震災後9年でどっぷりと被害者ビジネスに漬かって、まともな大人になれなかったのだろう。可哀想だ、家族と周りの人々が。

怒りで我を忘れるほど、憤慨した自分が、一日経ってふと感じたことは「哀れさ」である。彼女は今後この程度の知性で生きていくのだろう。何の公徳心も向上心もない。一過性の感情にすべてを照らし合わせて

「自分の気に入らないものはダメ。自分の気にいるものは良い」

私たちは未曽有の震災を経験した。その後多くの人の援助によってここまで生きてきた。それが当たり前と思ってはならない。このような「震災のひずみ」にならないよう、彼らの救いの手に報いるよう、日々、修養して生きていこうと強く感じた。僕らは常に被害者ではないのだから。

そんな週末でした。拡散、コメント宜しくお願いします。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》