見出し画像

音楽が世界の共通言語ではないということについて⑥

音楽学大学院生の週一アウトプット*40


このタイトルの記事も今回で締めようと思う。うまくまとめられる気がしないのだが、試みるだけはしてみようと思う。

前回の記事がこちら↓

前回は、音楽が世界の共通言語であるという言説はどのような要素に起因しているのかということを音楽の受容スタイルに注目して展開してみた。それでは、今回はそれに対して、このシリーズ全体の主張である音楽が世界の共通言語ではないという主張を確認していこうと思う。

音楽は人々の作り出した文化の一つと言える。すでに書いたように他の文化(食文化や服飾文化)と同じようにローカルなものが存在している。そして、前回言及した受容スタイルについても地域性というものが無視できない要素である。我々はそれぞれが生きるコミュニティ内で社会性や常識を身につけ、言葉で説明のつかない感覚の分野までもが日常生活における「無意識」にも様々なローカルな要素、各民族性などに影響を受けているからである。

今日の世界の均一化は進んでいるようで、創造性や伝統性を含んだ芸術や文化の領域は不可侵であるように思える。ハイパースペースにおけるコミュニケーション、情報交換が活発になった現代における音楽にもその不可侵性というものはあるはずだ。なぜなら、供給という面ではある意味その手法は均一化された(インターネットに投稿する、または配信されるという方法)が、受容スタイルはより自由になってきているからである。これはつまり受容スタイルが以前より増して個々に依拠するようになってきていると言える。もちろん制作の仕方も、音楽作品制作の大企業が大きな勢力を持っていた時代と比べれば個人に依拠するようになっただろう。

また、このシリーズの前半で音楽の「理解」「解釈」について言及をしたが、異文化における音楽を「理解」することはそう簡単なことではない。つまり、非言語表現としてその表現せんとするところを理解した気になりやすいが、実際のところ他の人々と自分がある音楽を聴いて同じシニフィエを思い浮かべることはレアケースなのである。(クラシック音楽では言語のようにある特定の記号的役割をするように定められていることもある。)

最後に、この主張は何を言いたいのか。単に、音楽を雑に一つに大きく括って欲しくないということではない。まず、絵画のような他の芸術と同じく、受容に正解が定められていない場合が多いという性質上、自分の受容したものと他人が受容したものも当然異なるということを知っておく必要があるだろう。

そして、自分が「美しい」「悍ましい」とかいった感覚を覚えた場合、その感覚は自分自身が生きてきたコミュニティや社会で培われたものであり、それを判断する基準もそれもまた他の文化圏の人とは違うのである。ただここで美術作品などとの比較を持ち出すと話が終わらなくなってしまいそうなので、今回は避けておこうと思う。

ここまで書いてきたように、私は音楽は受容レベルにおいてその特徴がはっきり現れていると思う。しかし、同じく受容レベルにおいて音楽の持つ特徴として、その受動性や簡易性も挙げてきたが、それらが音楽が均一化されたものだという誤解を生みやすいのかもしれない。

…といったことを知っておくとまた音楽の聴き方が変わってくるかもしれない。

これにてまとめとしようと思う。しかしこの記事にはなんだか今後修正を加えに何度も戻ってくる気がしてならない。その際は、この文章の後に追記を加えていこうと思う。

FALL


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?