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態度に出る。ではなく出している。

感情が込み上げてきて表情や態度に出る瞬間
客観的に見て認識できる状態になるその瞬間

自分でそうしたい(感情を表したい)からそうしている。

怒る時も
悲しむ時も
喜ぶ時も・・・

自分がそうしたいから、表情や態度で表している。
何が言いたいのかというと、自分の意に反して抑えきれずに溢れているものではないと私は思う。

怒って声を荒げる人は、自分ではどうしようもなく大きな声が出てしまうのか。
決してそんなことはない。
途中、電話対応が入れば、受話器越しの相手にはいつも通りに接することができる。
そして、電話を終えるとまた荒げだす。

これは自分の意志で荒ぶっている。

最近はないが、悲しいことや感動することによって涙する時、最後の一押しは涙を流そうとしている自分がいることにハッとした。

喜びが爆発する時もそう。
溢れるものは感じるけれど、爆発させるかどうかは自分に選択権がある。

選択のチャンスはほんの一瞬で、急な坂を転がり始めた感情は選択権がこちらにあると言っても権利とは名ばかりで、冷静な選択ができていないのかもしれないけど、表現された感情に対する責任は自分にあります。

この選択権があることとチャンスが一瞬でも巡ってくることがあると気づいてからは、何だか恥ずかしい気持ちになる。

自分で表した感情表現が、溢れ出たものではなく、溢れさせたものであるから、自分では抑えることができずに・・・とか、つい我を忘れて・・・という言い訳を自分で許すことが出来ない。

でも、良かったなと思う部分がある。
それは、怒りの感情について態度に出すことを監視できるからだ。

怒りの感情に舵を取らせるのは良い結果を産まない。
怒りの感情は宿すだけで、次なる前向きな行動燃料として消費してしまえってもんです。

そもそもあまり怒らなくなったかもしれない・・・



今日もいい1日です。

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