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私の人生 波乱万丈

1970年大阪西成で生まれた 私 金太郎 昔で言う一人っ子の貧乏人のボンボン だけど結構辛い幼少期だった
物心ついた頃には 親父は建設業で働いていた よく仕事はしていたが 何かあるごとに母を殴っていた 今度ゆう DV
 いつも親父の顔色ばかり見ていた
建設業の親方をやっているおやじの言葉は絶対だった
母も母で 親父がいない時には私にやつ当たっていた よく母に叩かれたことを覚えている 
 多分その当時は親父はかなり儲けていたと思う 外食もよく行った
 欲しいものは何でも買ってくれた
 周りの子が持っていないゲームやおもちゃ自転車屋スケートボードローラースケート本当によくたくさん買ってもらったのは覚えている

 小学校に入った頃から体重がどんどん増えていった そんな私を見て父が空手をやるように勧めた と言うか強制的だった いやいやながらも空手を始めることになった 
 なぜか全国大会にまで出た 優勝は出来なかったけど3位にまで上がれた でもあまり嬉しくなかった
 親父の圧力に負けていた私はなぜか人と争うのがすごく嫌だった
 小学校4年生の時 担任が親父と同じ暴力教師だった 今も覚えている私もだったが周りの頭の悪い子たちはみんな平手打ちをされていた 
その頃僕も登校拒否になった 4年生1年間ほぼ学校には行けなかった
 そんなことを知られると親父にまた殴られると思い 母も怖がっていた
 そんな時幼馴染の4兄弟の家が近くにあった 親父が仕事へ行った後そこへよく隠れに行った 昼飯を食べに帰ってくることもあるからだ 昔は登校拒否と言うと登校拒否の子が悪いように扱われていた 

 一年が過ぎて小学校5年になった頃
次の先生はとても優しい先生だった
 5年生6年生と学校はとても好きになって 登校できるようになった
中学に上がってから空手が嫌だったので
 どうしてもやめたいと親父に言った
すんなりと OK してくれた!
 誰がどこで聞きつけたのか 住吉大社の近くで貸し道場で柔道をやってることを聞いてきていた
 次は柔道や 親父も中学時代に柔道の県大会で優勝していた また始まった
 ちょっと遠い住吉大社だったけど
週3回練習に通った 休みの日は家で自主トレであった
 柔軟体操から始まり筋トレジョギング
やりたくもないのによくここまで行ってると自分でも感心した
いくつもの試合にも出た やっぱり楽しくなかった 
 柔道の成績は良かったがとにかく試合にも出るのが嫌だった
 中学3年の時には主将も務めた 確かに友達もたくさんできた
 推薦の話が転がってきた 柔道の推薦で学校から一件と道場から一件二件から推薦された
 柔道や空手をやっていたせいか
不良グループから頼りにされていた
 というか不良の仲間だった
中学3年の時 一つ上の先輩が殺された
 後で警察に捕まったやつらの言い訳は
いじめられていたから行ったと言っていた
 はっきり言えるありえない 先輩も不良グループだったが人をいじめるということは絶対にしなかった
 いじめられてるやつをいつも助けていたのがその先輩だった
 その相手は今名前を変えてどこか違う所で住んでいるらしい
 普通じゃこんな体験しないだろう
敵を撃ってやりたかった
 先輩も柔道をやっていて体つきがよく僕に似ていた
先輩の実家はお寿司屋さんで 近所にあったのでよく通っていた
 先輩のお父さんお母さんに会うのが嫌だった 私を見ると鳴き始めるんです
帰ってきたのかと思って間違えて
 それからその家の前は通らないようにしている
 柔道推薦の話に戻ります
どうしても柔道を続けたくなくて 思い切って親父に言った
 もう高校にも行かないと ぶん殴られた 行かないということに必死だった
 なんとか親父が承諾した
親父と一緒に建設業をすることになった
 何人もの職人さんと一緒に働くことになる
 親方の息子だからと甘やかされた
親父は逆だった 人一倍みんなの前で怒鳴られた 何度もおやじを高いとこから突き落としてやりたいと考えた
 周りの職人さんに止められた 
18になって車の免許が取れるようになったんで すぐに合宿に入って車の免許取った 15の年から仕事ばかりで そんなに遊びに行くこともなかったんでお金は貯めていた
 車の免許を取ってすぐ新車のスポーツカーを買った ここからまた人生が変わっていった


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