人に優しくするということ

今の世の中、様々な創作作品で溢れている。

いじめを主題にしたものやモラハラを主題にしたものなど、人の醜い部分に触れるような題材の作品が多い。

このような人の醜さに触れられるのは、創作作品だけではない。


思えば昔から、両側面から物事を考える子供だったと思う。

成績が悪くなくて、学級代表になることが多かったことも、もしかしたらこの人格を形付けたのかもしれない。

小学生の時は全く異なった2つのグループを行き来していた。
わたしからしたらどちらも異なる価値観を持つ大切な友人だったのだが、「あなたはどちらの味方なの」と糾弾されたことをよく覚えている。

傍から見たらわたしがグループ間を反復横跳びしているように見えたのだろう。


中学生になれば、おのずと一人でいることが増えた。
その頃は視野が狭くて、周りの人を見下していた自分が悪かったんだと思う。

担任の先生はわたしの味方ではなく、陰口をたたかれて「学校に来るな」と言われたわたしに触れることはなかった。

「ひいきしないでください」と勇気をもって打ち明けた言葉は、「好かれないお前が悪い」と一蹴された。


何事もなく生きていたわけではないと思う。

だからこそ、他の誰かが避けている人に対して故意に冷たくすることはできなかった。



誰もが優しくしなかった人相手に普通に接していたら過度に好かれたことがあった。

わたしにとっての「普通の優しさ」は彼らにとって、普通ではなくて、だから好かれているということを自覚するのにそう時間はかからなかった。

とても複雑な気持ちになった。

わたしの普通が彼らの普通じゃないことは寂しくて悲しいことだったけれど、そんな愛なんて愛じゃないって思えてしかたがなかった。

それはわたしじゃなくてもいいんじゃないかって何度も思ったし、同じように優しくする女性が現れれば、きっと彼らはその人のことを好きになるんじゃないかと思った。

代替の聞く愛であって、きっとわたし自身を好きになったわけではないんだろうなって何度も思った。


そうして少しずつ疲れていった。

優しくすることって悪いことみたいな気がした。


大学生になって、恋愛関係で揉めてハブられている子と仲良くした。

その子がサークルに戻れる居場所は確かに作ったつもりだったけど、別にわたしが彼女に一番になったわけじゃない。


いらないじゃんって思った。

優しくしてもいいことなんて何もないじゃん。

過度に好かれたそれは愛と呼べるかもわからないし、わたしなんかでは誰かの居場所になることなんてできない。



でも昔もらった言葉がある。

教育実習に来ていた先生に「死にたい」って打ち明けた時に送ってもらった言葉だ。


「『人に優しくしてる暇なんてない』って言う大人になんてならないでね」



優しくしたことがいい結末になったかなんてわからない。

足りなかったかもしれない。

でももしかしたらそのやさしさを受け取った人は、その瞬間一人じゃなかったのかもしれない。


きっとそれだけで意味のあることだったんだろう。


正直少し疲れたような気もするけど、もう少し人に優しくしようと思えたそんな夜の話。


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