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252、ネット友だち

ぼくの休日ときたら、まったく。
いや、父の散歩には、毎日通って、それなりに、なにかやっていたとは言えるだろう。
それ以外、なにもしてない。
父がいなかったら、ほんとうに寝正月(正月ではない)だった。
まあ、おかげさまで。向こうの看護師にも
「お父さん、だんだん、元気出してこられましたね~」
と笑顔で、話しかけられるようになった。
しかし、問題の面接先が、なにも連絡をよこしてこない。
お金の自由は、いまだ、なにもない毎日である。
なんで、ぼくの人生って、こういつも、なにかの問題がはらんでいるんだろう、と思われる。
万事、すべてOKといったためしがない。
ぜいたく言い過ぎかも知れないが、母の介護のときだって、どこか、こころにすきま風が吹いていた。
「人生、このままでいいんだろうか?」
という、疑念がいつも、こころにはびこっているのだ。
まあ、100点満点の人生なんて、どこ探してもないのかも知れないが、いまだって、ほら。寂しい、ではないか。
寂しいから、noteをやってるのかも知れないけど、こう毎日、毎日、「ああ。もう新しい恋はできないのかなあ?」と、どこ行っても、女性の顔がちらついているようじゃ、ストレスがたまる。
なにか、いい方法はないだろうか。

noteや、受験生アプリ、カクヨムのネットで交流がないわけではない。
こころ温まる、コメントをくださるかたもいるし、カクヨムでも、受験生アプリでも、交流している友だちはいる。
ただ、兄に言わせれば、ネットの友だちなんざ、ないものと一緒だと思え!というのだ。
そんなことはない。兄は、snsをやらないから、わからないのだろう。ネットの交流は、ネットの交流で、これといって、なにかを生み出すものではないが、長い間、関係性があればあるほど、だんだん、そのひとの人格なども理解できてくるし、時には、こころ温まることを言ってくださる場合もある。時間が長ければ、長いほど、「信頼」というものができてくるのだ。
アイコンを見るだけで、どのひとか、名前が言えたり、そのひとの投稿があれば、喜んで、見に行く。そして、ことばを交わす。
それは、簡単に壊れる関係であるかも知れないが、そのとき、そのとき、こころが温まることで、意味は、充分、存在すると思う。
そのひとが、アプリに存在している限りは。
ただ、別れというのは、いつも突然やってくるもので、そのひとがアプリをやめるタイミングがわからない。やめないでくれー!といくら、こっちが願っていようが、やめるのは、そのひとが決めること。
そのひとは、退会して、いまどこにいるのだろう?
それが、ネットの交流というもの。
結局、相手の顔も、声も、知らないまま、終わっていく...…
これが、兄の言っていた、ないものと思え、というのなら、少々は、納得がいく。
思い出というものも、手のなかをすり抜けて落ちていく砂のように、そのひとがアプリをやめれば、どんどん、どんどん、消えていく。
これが宿命なのね。
こんな最後を迎えるたんびに、ぼくは、むなしい気持ちを消せなくなっていくのだ。
いつまでも、そのひとが、記憶のなかに残っているわけではない。時間の流れと一緒に記憶からなくなっていってしまう。

いや!それでも、いつまでも、名前だけは、記憶に残ってるひとはいるものだ!
ほんとうに、記憶の断片だが、記憶に残っているひとはいる。
そのひとのことを、ぼくは、大切にしたいと思う。

消滅していく宿命であっても。

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