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常識を疑うことのすゝめ

こんにちは。

タイトルは目を引くように諭吉先生の「学問のすゝめ」っぽく書きました。が、当たり前ですがそんなハイレベルな文章ではございません。そして、そんなに長い文章でもありません。

ですが、個人的にはとても大事にしている考え方や、エッセンシャルな内容を盛り込みましたので、お時間が許せば是非ともご一読願います。

原稿用紙3枚程度の分量なのですぐ読めると思います。

スタート


常識ってしばしば耳にする言葉ですが、それって一体何でしょうか。

常識:一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。(goo辞書より)

常識という言葉を聞くと、どうしても
普遍的かつ決定的な印象が拭えないと個人的には感じていますが、
よくよく考えてみると、実際そうではないみたいです。
多くの人が「常識」という言葉に対して、私と同じようなイメージをお持ちなのではないのかと推察しますが、皆さんはどうお考えでしょうか。

goo辞書における”常識”の説明が正しいという前提では、
「一般の社会人が共通にもつ知識・感覚、またそれに基づく判断」
という説明からも、
常識というのは如何に曖昧なのかがわかります。

何故なら、その常識とやらを作り出す社会そのもの変動的だからです。

社会とは、
現実の社会でもあり、
ある種の問題に対する価値観を共有する集団、でもあります。
故に、価値観が変動的なことはイメージしやすいと思います。

社会の変動性を表す極端な例を挙げると、
戦時中の日本では、自国のために自らの貴重な命を捧げることもやむなし
という風潮があり、これを常識としていました。
現代日本は、その考えは常識ではなくなっています。

このように、常識と言われるものは
客観的な物差しで正確に計ったもののようで、実はmajorityが考える、とても主観的かつ流動的な意見の寄せ集め
という側面をもつと思うのです。

このような仕組みで、
周りにいる大勢の主観的な意見は、
常識と言う名の客観的風思考へ変換されます。

その理由の一つに、おそらく脳の機能的な特性上、あらゆる考えに対して(考えることが無駄と判断した思考を)省力化する癖が人間の脳にはあるからだと思います。考えるのは面倒ですからね。

まとめると、

常識=
直感的事実や、時代を経ても変わらない普遍的事実

社会や時代などでの変化しうる解釈

この後者の成分を常識という言葉の範疇に含めていることが、この言葉の解釈に混乱を招く要因となると思うのです。

更に言うと、後者の常識とは
「社会の大多数がそう思っているだろう」
と、自分が主観的に解釈した結果とも言えます。
それだと尚、曖昧なものになる気がします。

体重の2%を占める脳は、生命活動における全体のエネルギーの20%を消費すると言われています。ここからもわかるように、思考には多大なエネルギーを要します。
脳はエネルギーを極力消費しないためにも、極力考えず、そこに合理性や論理的解釈を付与して盲目的に納得する臓器なのかもしれません。

だからこそ、何かの問題・課題で行き詰まった時は
その常識的な解釈を疑うことから始めることが重要だと私は考えます。

周りの意見に対して、自分の思考・解釈なしに合わせるのではなく、
熟考して自分の中にある常識の純度を高めることに力を費やす必要があるのではないでしょうか。

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