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孤独をかこつということ

今朝は、九時前におきた。休みの日ともなると、こんな調子。もっと早起きしたい。朝方の生活がしたい。

ほかの家族が、とても深刻な夜型である。だから、わたしだけ、はやくねるということもやっていたのだけど、なかなか、それも心配だし、わたしだけ早く寝ることで、家族の孤独や不安が増してしまうかもしれないという不安、(ああ、不安というのは、好きなだけわくもんだ、生クリームかけ放題みたいだ)(つまり、甘くて、くどくて、魅惑的なんもんだ)
近所のレンタル屋にDVDを返却にいった。昨日は、「ラーゲリーより愛をこめて」を家族と二人で鑑賞する。主題歌を家族が愛してやまない、Mrsgreenappleが書き下ろしていて、映画もとてもよかった、内容は戦争の話だけれど、家族の絆が描かれていて、美しい。

ほかには、「こちらあみ子」「Barbie」「ネメシス……(タイトルがあいまいで割愛。人気のシリーズ?情報不足)」「母性」の五本。
 Barbieと、ネメシスは途中でリタイヤしてしまって、とくになにも書くことがなかった。Barbieにはラ・ラ・ランドのライアンゴズリングがでていて、わあとなった。
今、変換すると、ライアンまではカタカナで、ゴズのところが、“牛頭”とでてきたんだけれど、牛頭で、ゴズとは、勉強になったなあ。
中学生なら、漫画とか、小説の主人公の相棒のうちの、猪八戒的な役回りの配役をあたえただろうな。わたしなら。
 
中学生の時は、ほんと全開、架空のバンド(ジュディマリぽいの)のメンバーとか、ライブの時のコーディネートとか、インタビューとか、歌のタイトルとか、考えていたな。
 そういう関係のノートとか紙切れとかは、数年前に全部処分してしまった。


昨晩雪が降ったようで、すこし凍った路面にふんわり雪がかぶさっている。小刻みに移動する。

コツ、コツ、コツ、と音がして見上げると、なんと、キツツキが木をつついている。動画をとるために、しばし上を見上げ続ける。

わたしは、鳥をみるのがとてもすきなのだ。

TSUTAYAの返却ポストにDVDを投函、帰り道はキツツキには出会わなかった。

帰ると、まだ誰も起きていない。
静かに、ネットフリックスの次に見る映画の事を、スマホで調べていた。
今年は、名作と呼ばれて敬遠していたものを、見たいなと思う。小津安二郎とか。

しばらくして、家族が起きてくる。
チーズとマヨネーズで、ホットサンドを作る。一人は、学校の活動で外出。

 昼近くなったころ、電話がくる。固定電話の番号で、ぴんとくる。

実は、昨日、わたしは長年とても心に引っかかっていた問題を解消するべく行動にうつったのだ。
その問題というのは、十年以上前にかりっぱなしになっていた本を、返却するというものだった。
本の持ち主は、わたしが結婚して家族で暮らしていた集合住宅の下の階に暮らしていた、女の人だった。

その本は、六花亭の包装紙の絵で有名な坂本直行氏の著作で、貸主の女の人の名前で、サインの入ったものだったのだ。貴重なものだろうと、すぐにわかった。
偶然、ご近所付き合いをすこしだけしていた。
家族がまだ歩けなかったころ、お宅にお邪魔して、お茶を飲んだり、そういう関係だった。そんなにべたべたしていたわけじゃないから、彼女は覚えているだろうか、とか、貴重なサインの本だから古本屋にもっていってしまおうかな、とか邪なことも思ったこともあった。
お邪魔したのは、たぶん一、二度くらいだったか。それもうろ覚えだった。
こじんまりとした、素敵な人だった。一人暮らしをしていて、年は母親世代かな、というところで、彼女の顔はあまり覚えていないのだけど、日常を花で飾ったり、ハーブを育てたり、楽しんでいる人だったという印象でわたしの記憶に残り続けている人だった。
 そのころのわたしは、幸せだったとはいえない。夫もわたしも、未熟だったし、大切にするものの軸がそれぞれずれていたのだ。なぜ結婚したのだろうか、と悩むことが、自分を否定しているようで苦しみ続けた。それは、離婚してからも続いた。もともと、自己否定が得意なのだ。そう生きていくのに、うんざり、あきあきした最近、やっとわたしは、変化に片足をさしいれ、その新しい地盤をゆっくりと歩いている。

本の事が何年も気になって、去年くらいからその人に本を返す!!、というタスクを書き込んでは、なにかが邪魔して、きっと新しい出来事に触れることができない余裕のなさから実行できないでいた。
ようやく、先日思い切って手紙を書いた。
離婚した時に暮らしていた場所と、現在の場所は徒歩圏内なのだ。

もう離婚してから、顔を合わせたことも、現実のコミュニケーションをしたこともないけれど。もう、電話で話すこともできなくなってしまった。彼は、無言を徹する。それが、悪いことなのかもわからないわたしは、愚かなのだろうか、それともくよくよ悩むことのない賢い人間なのだろうか。
わたしたちの関係は現在、金銭を反してのみ成り立っている。

会わない代わりに、彼が暮らしている痕跡を、なんの理由なのか探して窓の明かりを見つめたこともあった。わたしたちが出て行ってからも、彼はその場所に住み続けた。それは、尋常じゃない無神経なことのように思えた。
自分なら、すぐに引っ越すだろう。
忘れてしまいたいだろう。
信じられなかった。
ベランダには、最初の子供が生まれた時にはりきって布おむつにしていたのもあって、おむつ洗いのバケツがそのまま放置されていたのだ。
かつて、自分が暮らした場所がどうなってしまったのか、どういう空間にかわりはててしまったのか。それが気になった。心にひっかかった。

最初はとても憎たらしい気持ちだったけれど、数年がたつと、もうそれも薄れてきて、わたし自身こんなに苦労したのに、薄情なものだと、わたしの信念とか思想みたいなものを訝った。おむつのバケツはわたしが、もうひとつの帰るべき場所の目印のようなイメージを与えた。

しかし、あるとき、通りがかると、おむつバケツが消えてしまっていたのだ。一体、何年放置しているんだという感じだけれど、彼は引っ越したんだ。と、あっけなく思ったのだ。
そうなると、今はどこに住んでいるのだろうか、と遠い知人のような気持に気になって、わたしはやっぱり懲りないのだろう、バカだ。でも、いつまでの恨んだり憎んだり、過去の自分を否定する熱量だけで生きるのも疲れるのだから、わたしの暮らす家族に申し訳がたたない。わたしは、守らなければならないものが、あるのだ。
悩みはつきない。
割り切ったり、ちょうどいいという事を、わたしは知らないのだろう。
彼とわたしが共通して好きだった、RCサクセションや、ロックステディや、ジャマイカのオールデイズ、それらを心底感動しながら聴けるようになったのもここ数年だ。わたしは誰かに、――音楽とか、恨んだりすることとか、あの放置されたおむつのバケツに、肩代わりさせていたのかもしれない。必死に自分を保っていた。

手紙の投函も、もう、いないとわかってから二、三年たって、ようやく今年に叶えることができたのだ。

昨日、歩いて三十分ほど。
彼女の自宅の郵便ポストに、手紙を投函した。
離婚したことや、お付き合いしていたときに楽しかったこと、本を返していなかったこと。
返却に伺いたいので、電話か手紙をくださいと。切手も一枚忍ばせた。

すると、今日の午前中に電話がきたのだった。

彼女は、わたしの事を覚えていた。そして、衝撃的なことを話してくれた。

「たぶんご主人、まだ暮らしているわよ」

!!
離婚した理由を、彼女に昨日の手紙で伝えていたので、彼女も驚いたと思う。
ほんとうに、あのころのわたしたちは、映画のような展開の離婚劇をくりひろげていたのだ。
ああ、そうか、変化したのだ。そう思った。
元夫と女の人が一緒にいたこともあった。とその人は、教えてくれた。
わたしの知らない彼の生活を、わたしはなぜだか知りたくなった。それは、たぶん、他人への興味に過ぎなかった。

ただ、わたしは、あの把手が赤いおむつのバケツがベランダの端の方に置いてある風景を思い出した。まるで、わたしたちに子供が存在したことが、なかったことになってしまったみたいだった。感傷的すぎる。

でも、彼にとって、それはただのゴミなのだろう。
わたしは、ものにいちいち何かを託したがる。わたしは、彼ではないのだから、彼も同じなのだ。
布おむつなんて、面倒で、洗わずに捨ててしまったこともある。結局そのうち雑巾に使ってしまった。
だけど、わたしだって、頑張っていたんだ。
お金にも苦労した。今とは違う形で。たったの数年。
下の娘が四か月のころに、わたしはもう働きに出ていたのだ。
軸がちがったのだから。過去をいじくりまわしてもしょうがないのだ。
本当に小さな、2DKの部屋で、一生懸命に生きて、幸せになりたかったし、夫のことも、子供のことも、わたしがなんとかしなきゃ、なんて傲慢だったのかもしれないし、切実だった。なりふり構わずもがいていた。なにもかも未熟だったのだ。

彼女は楽しい人だった。年齢を初めて聞いたけれど、すごく高齢で、でもしっかりしすぎているくらいの人だった。
数分お互いのことを話して、今後会いに来てね、と。だから、お邪魔する約束をした。うちに来た時に彼に会ったらいいじゃないの。と、彼女は笑って言った。素敵な人だ。
電話の余韻は、ずいぶん続いていた。


昨日、中断していた、「イノセント」というアニメーションの映画をみた。人形の様子がドキドキする怖さだったけれど、内容が難解な割には、さらりと見ることができた。
それから、家事をちょこちょこやりながら、羊たちの沈黙や、ダヴィンチコードを見る。羊たちの沈黙はクラリスとレクターの関係にぐっとくる。

だいじょうぶ。
わたしは、わたしの生活をおくるだけだ。

夜。
些細なことがあって、ひたすら、悲しい、という気持ちに苛まれた。不安を抱えちゃだめだ、と考えることをやめる、抱えていいんだよ、大丈夫、と呼吸することを忘れずに、日記を書いている。
去っていった人の事ばかり考える。

大丈夫。わたしは、大丈夫。
とか、言い聞かせて、本を読んで眠る。

きっと、彼も、何かを手に入れたり失ったりしながら生きているから、わたしを「お母さん」にさせてくれて、ありがとう、と、ほんのすこしだけ疑ったりしながら思う。

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