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戦闘する君よ

 週末、チャコが、カローラで現れた。

チャイルドシートに、伊津見君は乗っておらず、かわりに、ばかみたいなでかさの茶色いぬいぐるみが、苦しそうに笑っていた。
 伊津見くんと、会ったのは二ヶ月前で、その時はチャコに回転寿司を奢らされた。チャコは長いつけ爪をカチカチいわせながらタッチパネルでイクラと赤貝ばかりオーダーし、伊津見くんは、〆鯖や小鰭を食べ、あんみつを目の前にして、目を輝かせた。最後はプリンではなく茶碗蒸しをデザートとして注文した。結局最後まで子供らしいものは頼まず、「わたしの育て方がいい証拠だよ」
 チャコは全く関係もなさそうなことを誇らしげに言った。
 シートベルトが食い込んで、うしろのカンガルーみたいな流行りのキャラクターは、筋トレをした男のように逞しくみえた。
「たんぱく質信者の男連れか」
「あ、女だよ。しっぽにリボンついてるし」
「男も女も関係ないでしょ、リボンなんて」
「あんた、毎回めんどくさいよね」
 チャコの行動範囲なんてたかがしれてる。近所の大型ショッピングモールか、もっと近所のホームセンター。DIYなんてやった試しもないのに、チャコの自宅には端材の詰め合わせや、漆喰風の塗料、高価なドリルや、安全帯まである。何を目指しているのか、見当がつかない。第一、平均台も怖がるような高所恐怖症の癖に。
「三千円ちょっと、こいつん、足引っ掛かってさ、ゲーセンの店員さんにおまけしてもらった」
 まるで負け試合の帰り道みたいに、顔をくしゃっとさせる。煙草に火をつける。
 チャコと付き合っていたのは、中学生のころだった。手をつないで、一緒に登下校する関係が半年続いただけの、ちっぽけな思い出だった。
 淡い恋とか、切ない片思いではなく、たまたま父親通しが同じ職場の、同じ部署だったため、幼少期から、チャコのことはよく知っていた。自然にそうなった、なりゆきでそうなった、と表現するのが一番適切で、別れもごく自然だった。チャコが妊娠したからだ。もちろん、相手は違った。僕じゃない誰かとチャコが、妊娠するような行為をしていたのも衝撃的だったが、気づかずチャコと結婚することを夢見ていた僕は、あれ以来、人間不信になってしまった。
「また吸ってんの」
「イツミンといるときは吸わないって。副流煙、副流煙」
「なら、俺もさ」僕はわざと咳ばらいをすると、チャコはくわえ煙草で、いかにも化繊でできたニットの毛玉を指でつまむ。「なにさ、寝起きででてきたの」「まあね」
 カーラジオからは、午後の時報が流れ、流暢な英語のDJが、先月来日した世界的詩吟ソングライター、ミチェル今井のコンサートの様子を熱っぽく語った。
「伊津見君は、実家?」チャコは煙をわっかの形に吐き出す。ヤニだらけの歯列で、ニイっと笑った。
「旦那のとこ。ってか、旦那の彼女が、うんと、今カノじゃなくて、元カノの方ね」
「は、今とか、元とかしらないし……、大丈夫なの」
「イツミンも、喜んじゃってさ。たまに来るきれいなお姉さんが何人もいたらそりゃうれしいでしょ。あいつの好きなレストランに連れて行ってもらえるらしいし。ファミレスとかチェーン店じゃなく、コックさんが作ってるとこ。ね、大丈夫だから。ね、ドライブしよ」
 チャコが僕の袖を引っ張る。カフスボタンを物珍しそうに見つめてから、「こんな重いものつけて、あんた、ばか?」
 僕は黙って助手席に乗り込む。チャコの、香水のにおいがした。「一応アパレルだから」僕の言葉はチャコには届かなかった。
 28線を動物公園のある山に向かって車を走らせる。信号待ちでチャコは、ダッシュボードに手を伸ばす。「なんか、取る?」
「……したの方に……、サングラスあるから」
「おまえ、なにかっこつけてんの? 照れてんの?」
 チャコがおもちゃみたいなサングラスを僕からひったくる。
「外、ぜんぜん曇りじゃん」
 僕はひたすら信号と、挑むようにしてはだかる山の稜線をぼんやり眺めた。
「色々と、眩しくって」
チャコがそう言うと、信号がちょうど青になった。

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