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ガチャを引いたらカルトでた。②2世がオウムの教義について語ってみる

オウムの関連本は数多く出版されている。しかしそれは外部メディアから取材されたものや1世信者から見た手記ばかりだ。2世の立場から語っているものは教祖の娘さんの本ぐらいではないだろうか。
この記事ではフランクな言葉でオウムの教義と2世の立場について語ってみようと思う。離れて20年以上経つため正直おぼろげな部分もある、しかしふとした瞬間に強烈に蘇ってしまう。

オウムの教義は、一言で言えば『ごった煮』だ。

ヒンドゥー教のシヴァ神を祀り、体はヨガを基礎とし、仏教の釈迦の逸話を語り、チベット仏教の曼荼羅が飾られ聖人を招待する。終いにはキリスト教のヨハネの黙示録を解説していた。宗教の良いところ取りやー!!

私はこの文を書いてみて、オウムは非常に日本人らしいと思った。正月は神社で初詣、結婚式はチャペル、ハロウィンとクリスマスで盛り上がり、死ぬ時な仏式。オウムは典型的な日本人だ。信者はそれになんの違和感の抱かず信仰をしている。当時は欧米の方が日本をイメージすると他国のアジア文化が混じるのと同じで、私は遠い地の宗教の違いが分からなかった。しかし今になって見ると、非常におかしいことに気づく。

ちなみに、私は幼少期からこのようなごちゃまぜの宗教を学んでしまったため、放送大学で宗教学を履修して学び直した。そして現在は神社仏閣を丁寧に参拝している。
この宗教知識ごちゃまぜの私だが、唯一の特典があったりする。漫画「聖☆おにいさん」の元ネタが調べずとも分かり大笑い出来るのだ。コミック映画ドラマと楽しく拝見している。中でもペトロとアンデレが好きです。

オウムのもう一つの特徴として、信者たちは『死』を語るのが得意だ。
「人は死ぬ必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」
教祖が説法でよく言う言葉だ。信者なら知っていないとおかしいほど有名なフレーズだ。今世でカルマを精算しないと悪趣に転生してしまう、高い世界に生まれるため徳を積まなくてはいけない。死後の世界がどんなに恐ろしいかしつこくしつこく説法される。
新たにカルマを積まないため、戒律を遵守した生活や行動を求められる。これがやたら細かくて結構ハードなのだ。「尊師のご命令です」ですぐ追加される。「アイスクリームは修行を3か月遅らせます」と言われ、私はアイスクリームを脱退するまで口に出来なかったほどだ。

この記事のタイトルをご覧になると、私の無類のゲーム好きが分かっていただけたと思う。コンシューマーゲームからソーシャルゲームまで幅広く遊んでいる。ええ、もちろんオウムではゲームは禁止でした。
「イメージの中で殺生をするためイメージの世界が穢れる。殺生のカルマを積む」とこじ付けのような理由でした。

我が家は宗教に出会う前、両親がファミコンを購入しており、家族で熱狂的に遊んでいました。しかしある日ゲームは良くないものにされてしまった。親族や友人の家で某配管工カートゲームで遊ぶこともあったが、家ではスーパーファミコンからゲーム機本体を購入してもらえなかったため、多くのタイトルは未修になってしまった。
脱退してアルバイトをはじめてからゲーム機本体を買い、取り戻すかのように遊んだ。中古のゲームソフトを買いに秋葉原に通ったこともある。ゲームに熱中しすぎて首を痛め全治2週間の負傷をしたほどだ。しかし、それでも取り戻せない期間は存在する。

ゲーム仲間の友人がたまに無邪気に聞いてくる。
「まひろ、何でこのゲームやってなかったの? 絶対好きな内容だと思うよ」
「親が買ってくれなくて……。」
言葉を濁すしかない。嘘ではないが背景は語れない。私は苦笑してその話題を流すしかない。本当の理由は友人に2世である過去を打ち明けるまで言えないだろう。

ゲームを例えにしたが、普通の家庭には当たり前のものが宗教2世の家庭では禁止されている。
宗教2世は幼い頃から宗教の常識と外の世界の常識、2重生活を強いられる。成人し社会性の基盤のある大人と、社会を知らない子供とでは難易度が違うのは理解していただけるだろうか?!
その違いを細かく理解し、その場その場の大人や周囲の顔色を伺うしかない。そして当時私は宗教を信じてしまっていたため、普通の生活はストレスであり、毎日蕁麻や頭部に神経痛を引き起こしていた。しかしオウムでは過酷な生活が待っている、どこにも安住地はない。
オウムに所属していた頃、1世信者に「まひろちゃんはオウムの純粋培養」とよく言われていた。それは選民思想的な観点から褒め言葉なのだが、今は消してしまいたい過去だ。危険な教義に教育されていた私は陰謀論を信じ、悪業を積む前に死ぬことを望んでいた。20歳以上の自分を想像さえしていなかったほどだ。子供にこんな思想をさせる団体は狂っている。

2022年秋、私は手術を体験した。
命に係わる病気ではなかったが長年抱えていた不具合で生活に支障が出てしまい決断したものだ。準備期間は大学病院の初診からだと半年強、全身麻酔をかけ腹腔鏡で臓器にメスを入れる。入院は4泊5日、職場復帰までひと月かかるそれなりに大変な手術だった。
当時受診していた街の主治医より「そろそろ症状が重くなってきたので、手術を視野に入れませんか?大きな病院への紹介状を書きますよ。どうですか?」と言われた。それがコロナの緊急事態宣言が出る少し前、2020年の初頭だった。そう私がこの手術を受けるまで約2年以上かかっている。手術と言われて「はい、分かりました。そうします」とすぐ答えられる人は少ないだろう。私は紹介状を貰ったはいいものの、違う意味で手術をする決意が出来なかった。周囲には「コロナが落ち着くまで待ちたい」と言い訳していたが、理由は違うところにあった。
そう、この記事は教義を題材にしている、私はオウムの教義が脳裏にチラついて手術に踏み切れなかったのだ……。
あれから何十年も経ったのに。

――尊師が言っていた世界があったらどうしよう。地獄に落ちるかもしれない。

それは条件反射的のように私の中に沸いて出てきた考えだった。

――そんなものはない!

否定しても否定しても、こびりつく汚れのように拭いきれない。
オウムでは西洋医学の治療は良くないとされ(せっかくカルマが落ちているのに治療するのはよくない自然治癒を推奨)、薬を飲むことも禁止され、修行中高熱が出て立ち上がることが出来なくなっても、幹部から「浄化が起きて良かったですね、修行で治しましょう」と休むことも許してもらえない。手術はもちろん最大の禁忌だった。魂の器を傷つけるなど許されない。
しかし私がその教義を信じていたのは、過去の話だ。いまは普通に病院かかり薬を飲む。手術と薬では大きさが違かったのだろう。すでに捨て去ったと自分では思っていた教義が、まさかここにきて足かせとなり『手術』という札を取れないとは思いもしなかった。これが洗脳なのだろうか。
私は自分に沁み込んでしまっていた教義と一人戦うため、自分を繰り返し説得させるのに約2年の期間を必要とした。実はこんな事を書いているが、最終的に決断するきっかけは別の理由で、私は結局教義と戦って決断を下すことは出来ないまま手術に臨んだ。

結果、手術は何てことはなかった。私は何も変わっていない。術後の痛みや不快感はあったが心は晴れ晴れしていた。病院のベッドの上で、これからはいま以上に自分の好きに生きていこうと、回復した後の生活が待ち遠しいほどだった。私を縛っていたオウムがどうでもよくなっていた。
奇しくも手術前後が2世問題について大々的にクローズアップされていた時期で、私はメディアの取材や本の出版などに協力していたため、その対応を追われ、嫌でもこの問題と向き合わなくてはならなかった。それもありがたいことに私の中で言葉にすることで整理をすることができたのだろう。

私たち2世は、脱退し通常の生活に戻っても宗教に足元を掬われ、心は簡単に解説できないほどこんがらがったままだ。土台を築く未成年時代を奪われ治療も受けず、世間から見て見ぬふりをされ、透明な存在として扱われる。
『透明な存在』この言葉は、アニメ『輪るピングドラム』から引用している。この作品は宗教2世や地下鉄サリンを嫌でも思い越す内容だ。考察はここではしない。アニメ内で「誰にも必要とされない子供」が「こどもブロイラー」に連れて行かれ巨大なシュレッダーで粉々にされ「透明な存在」にされるシーンがある。その描写なら「死」を連想するかもしれない。
いや、生きたまま透明な存在にされると私は解釈した。
私たちがそうだったように……。

何十年経ったいまも何か行動を起こそうとした時、自分の意図していない瞬間、足かせとなって現れる教義。
私は手術でオウムと宗教2世としての過去に少し踏ん切りをつけることができたように思える。私のようなこんな大きなイベントやきっかけではなく、2世たちに小出しに吐き出せる場があればと願ってやまない。


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