見出し画像

幸せじゃないほうが幸せ

先日、こんなことを考えていた。

親友が、家庭の問題と仕事上の冷遇が重なって苦しんでいる。
たまに愚痴は聞くけれど、お互いに忙しい相手を気遣ってしまい、頻繁に電話するようなこともない。
彼女の処遇が改善されて、気持ちが楽になるといいなとぼんやり祈るしかできない。
今、私がマンション買ったら申し訳ないな…

全く関係なくて的はずれだし、ひどく傲慢な考えだ。
自分の歪みを強く感じる。
こういう思考回路がこびりついていて、他のことでも同じように考えてしまうことがある。

臆病者の私は、幸せが一定量以上になると怖じ気づいて、居心地が悪くなる。
幸せを極力遠ざけてきた身だから、「幸せイベント」が怖い。
少し幸せじゃない状態のほうが安心する。
何か不足していたり、少し我慢をしていたり、報われない仕事を黙々とこなしている、自分にはそういう状況が相応しいと感じる。

自分は自己肯定感が低いのかと思い、調べてみた。
自己肯定感が低い人は
「どうせ自分には○○できない」
「私なんて」
というのが口癖らしいけれど、あまりそんなふうに思ったことはない。
今のポジションが向いていないとわかっているけど、やれるだけやってやる!という気概はある。
他にも、自己肯定感の低い人の行動の特徴として書いてあった「完璧主義」で「周囲の目を気にする」にも該当しない。
適当主義だし、他の人の目なんて気にしない。
だから自分の歪みが何なのか、自分でも理解できない。

私は10年ほど前からやめたことがある。
自分をおとしめて話すことだ。
アラフォーで未婚だった自分は、例えば仕事で認めてもらえると居心地が悪くて、「でも結婚できなくて子どももいないから」と話すことで不幸要素をアピールし、自分の胸を撫で下ろしていた。ある時、「それって、私以外の『未婚で子どもがいない人』を思い切りディスってる!」と気づいた。
ものすごく失礼なことだと。

不幸と幸運を天秤にかけて、不幸が多いほうが安心な自分から脱却したい。
「ささやかな幸せを手にしたいと願うこと」を自分に許したい。
望んだ幸せが手に入らなくても、あなたの人生は失敗ではないのだから、そのときそのときで大切なことを探していけばいいのだと、将来の自分を励ましたい。
こんな自分があまり好きではないけれど、誰も好きだといってくれないのだから、せめて私くらいは「そのままでいいよ」と認めてあげたい。

ヘビーなことを書いてしまったけれど、心は別につらくはない。
精神論や宗教には関心がないし、むしろ距離をおきたい。
私のことを病んでいると思っている人はいないだろう。
そこに自分の異常さを少し感じる。
同時に、理解できない自分を抱えながら生きている人たちはきっと少なくないのだろうとも思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?