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【短編小説】消えた名画

 四月になって、桜の花が咲いた。開花宣言が例年よりも三日早いという。地球温暖化の影響か開花が毎年早くなっているようだ。天気も快晴でほのかに暖かいし、けだるく、眠気を催すような午後の時間となった。

「あれ。ルノアールの『少女』の絵がないわ」

 ここ仙台市の私立高校で、丸顔の美幌咲子が画工室の絵画収納棚を何度も見なおし、眉を寄せて困ったような声を出し、腰を伸ばした。美術の授業に使う題材を準備しているのだが、模写する対象の絵が見つからないのだ。この授業の準備担当者として、早めに教室に来たのだが、時間も迫るし、焦りを感じてイライラした。

「遅くなって、すみません。あれ、どうしたの」

 その時、同じく準備担当者の佐枝虹子が顔を出し、棚を覗く咲子の後ろに立った。

「ほかの絵はあるんだけど、ルノアールの絵だけが見つからないのよ」

「見つからない。どれどれ。変ねえ。咲子さん、ひょっとして隠したんじゃない」

 彫りの深い顔立ちの虹子が、棚の中をガサゴソと確認した後、いたずらっぽい目で咲子をからかった。

「そんなこと言って。あなたこそ、やったんじゃない?」

 絵が見つからなくて困っているところに冗談はないだろうと腹が立って、咲子が言い返した。

「なんで私が。人に罪を擦り付けないで」

「遅れてくるのが怪しいのよ」

 始業時間近くになって、周りには、クラスメートが集まってきて、何事かと成り行きを眺めている。

「ごめん、ごめん。遅くなって。一体どうしたの?」

 そんな声がして、逆三角の顔型をした男子生徒の丸岡桔平がのこのこ現れた。

「遅い、遅い。桔平はいつも来ないで、間に合わないんだから」

 周りから、男子生徒の冷やかしが飛び、笑い声がちらほら上がる。そのとき、クラス委員の通報を受け、担任の畑石孝信先生が血相を変えて、画工室に飛び込んできた。

「お前たち。何やってるの。止めなさい」

「僕が来てみたら、美幌と佐枝が口喧嘩してたんです」

 桔平がまるで要領を得ない説明を始めようとした。

「どうして口喧嘩なの?」

 そう問われて、桔平はすぐに答えに窮し、咲子と虹子の顔を窺った。

「ここは、勉学の場所で、喧嘩をする場所じゃない」

 そこまで先生が言うと周りの男子生徒からやじが入った。

「そんなことより、原因でしょう」

「誰だ、今のは?ん、栗本だな。後で教員室に来てもらおう」

 先生がそう言って周りを見ると、栗本といわれた生徒は、首をすくめて後ろに身を潜めた。

「さあ。言ってごらん。どうしてなの」

 再度、先生が、経緯の説明を二人の女子生徒に求めた。

「私が、画材のルノアールの絵を棚から探していたのですが、なかったんです。それを後から来た佐枝さんが、私が隠したんじゃないかって疑ったのです」

 咲子が真剣なまなざしで事の顛末を訴えた。

「うん。あの絵は模造品で高価な物じゃない。心配することはない」

「絵の価格じゃないよ。話が違うよ」

 今度は、別の男子生徒からやじが入ったが、先生がそちらを見たときは、その生徒は素早く人の後ろに隠れてしまった。

「それはそうと、絵はどこか別の所にしまっているかも分からないし、画材は、他の絵にしたらいいじゃないの」

 先生が顔を戻し、その場の収拾策を示し治めに入った。

「はい。でもね。先生。私が隠したんじゃないのって、逆に言われたのよ。それも忘れないでください」

 虹子が、憤然と顔を仰向け上目遣いに先生を見て、わずかに媚びた。先生が立ち去って、すぐに始業のブザーが鳴り響いた。

 そのあと二日経ってもルノアールの絵は出てこなかった。このことを不問にするかどうかについては諸説があったが、最終的には篠谷校長の判断で、関係者から事情聴取をすることで決着させようということになった。

 教員室の応接コーナーに最初に呼ばれたのは、咲子だった。

「何か、安物の絵にしては大げさですね」

 指導教員の皆橋公子先生が、畑石先生の運んだお茶を飲みながら嘆息した。

「畑石先生いかがですか」

「えっ。熱いですか。失礼しました」

「おほほ。お茶じゃないですよ。絵のことですよ」

 相変わらず早とちりと思ったのだろうが、皆橋先生が笑いをこらえるのが分かって、畑石先生がわずかに赤面した。

「そうです。大げさですね」

 慌てて、畑石先生が言いなおしたとき、咲子が入ってきた。彼女がソファーに座ると、担任が早とちりの失点を挽回するかの如く気負って、まず声をかけた。

「早速ですが、美幌さんは、隠したといわれて怒りましたね。なぜですか」

「当たり前じゃないですか。絵がなくて困っているときに非常識です」

 咲子は、いきなりそんな質問で、先ほどの屈辱を思い出し、顔を怒らせた。

「そうですか」

 何か負い目があるからだろうと誘いをかけたつもりが、思わぬ反応で畑石先生は最初からつまずき二の句が継げなかった。

「そうですよね。一人で探して見つからず困っているのに」

 堪りかねて、皆橋先生が咲子に同情的な風情で話しかけた。それは、同僚への助け舟でもあったし、それを聞いて畑石先生はほっと息をついた。

「私は、あのとき、昼食をとって眠くなったから眠気覚ましに絵の準備をしようと早く行ったんです。そしたら見つからなくって」

 肯定的な皆橋先生に心を許し、咲子の表情が明るくなった。

「画工室に早く行ったのはそんな訳だったの?分かったわ」

 皆橋先生はそう言うなり、後は絵には関係のない他愛無い話をして咲子を放免した。

 次に呼ばれた佐枝虹子が明るい笑顔で愛嬌を振りまきながらソファーにふわりと座った。

「あら。佐枝さんの髪はつやつやして綺麗だね」

 開口一番、皆橋先生は、絵とは無関係な話で、肩まで垂らした虹子の髪の毛を褒めた。

「やだー。絵の話じゃないのですか」

 虹子は言葉とは裏腹に嬉しそうな顔をして、皆橋先生に笑いかけた。

「そー。絵の話だけどね、佐枝さんはどうして消えたと思う?」

「分からないわ。畑石先生のおっしゃる通りどこかにしまい忘れたのではないですか」

 首をかしげて、虹子が畑石先生を見た。

「うーん。そうですね」

 迂闊なことは言えないと、それだけを口に出し、畑石先生は、皆橋先生の言葉を待った。すると、皆橋先生は絵の話はそれっきりで、虹子とよもやま話をした後、彼女を帰した。

 最後に丸岡桔平が現れ、ぎこちなくお辞儀をして二人の先生の前に座った。

「丸岡君は、絵は好きですか」

「えっ。どちらかといえば苦手です」

「それで、準備にも遅く行ったんだ?」

「そんなんじゃないす。あのときは友だちと話し込んじゃって」

 皆橋先生の突然の突込みに、虚を突かれ、桔平の話がしどろもどろになった。

「皆と協力するときは、一緒にやらなければね」

「はい。以後気を付けます」

 日頃の振る舞いからお灸をすえられ、桔平が身を縮めて頭を下げた。後は一般的なクラスの話などをして桔平は、ほっと穏やかな気分になり、教員室から退散した。

「いかがでしたか」

「丸岡は悪ガキの一人だからちょうど良かったです」

「そんなことではなく、三人の話の評価ですよ」

 皆橋先生が呆れたように畑石先生を見て、湯飲みを指で触った。

「はっ。すぐに」

 畑石先生が慌てて、照れ隠しもかねて給茶機に走った。

「私が思うには、三人の話からは何にも分からないわ。先生はどう感じましたか」

 畑石先生の運んだ熱いお茶をすすりながら、皆橋先生は度の強い眼鏡の奥から目をしばたたかせた。

「そうですね。美幌と佐枝には言ってる通りで裏があるようには見えないし、あの通りでしょう」

「確かにね。とすると、丸岡だけどあれはあんなもので何も無いように見える。これは、あくまで仮定ですけど、美術が嫌いだとすると、絵の置き場所なんて分からないわね」

「はー。そうですね」

 皆橋先生の推理が始まったが、畑石先生には何が何だかトンと理解ができなかった。

「あの絵が見つかるかどうかですね。畑石先生。今度の日曜日に画工室を探検しましょう。先生のお考え通りにどこかにしまい忘れた絵を探すのよ」

「何ですって。日曜にですか」

 せっかくの休みなのにと思い、畑石先生は驚いて、皆橋先生の顔を窺った。

「そうですよ。それはそうと、先生、良いものをお見せしましょう。ちょっと待っててください」

 皆橋先生がそう言いおいて、自席に戻りすぐにパソコンをもってきて、テーブルの上に置いた。

「これを見てください」

 パソコンをマウスで操作し画面を出し、皆橋先生がそれを指さした。見ると、一人の女の子がピンク色のパジャマ姿で、長い髪の毛を背中まで垂らし、ベットの端に座って、笑っていた。

「この子はね。私が顧問をしている演劇部の部員で弓月倫子というんだけど、病気で入院してるのよ。先生のクラスとは別ですけど」

「ふーん。見たことがあるような気もしますが、その子がどうかしましたか」

 畑石先生は見当がつきかねて皆橋先生の言葉を待つほかなかった。

「先日ですね。間もなく退院だとスマホでこれを送ってきたんですよ。だけど後ろの壁を見てください。気が付きませんか」

 それを聞いて、ベットの奥の壁を見て、畑石先生は驚いてしばしの間、言葉を失った。

「ええー。ルノアールの『少女』がここにあるじゃないですか」

 どうも三人の生徒に対する皆橋先生の対応が生ぬるいと思ったが、先生は知っていたんだと合点がいって畑石先生の力が抜けた。

「絵があるんでは、日曜はなしですね」

 畑石先生はしめたと思い喜んだ。

「そうじゃないのよ。これには事情があるんだと思う。あの子を悲しませないためにも必要なの。絵はもう一枚あるのよ。私はどうしても探してあげたいの」

 それは、仕事外の個人的感情じゃないのと思わなくもなかったが、私立探偵の助手役としてはエスケープは許されないものと覚悟した。

 日曜日の十時ごろに学校に行くと、助っ人はもう一人、若くてさわやかな美術の岡坂里奈先生がいて、画工室のドア―を開け二人を待っていた。

「さあさあ。お二人とも中へどうぞ。絵の入った棚は全部開けておきましたから」

 岡坂先生が、明るく軽やかな声で、デパートの店員のように声を張り上げて二人を差し招いた。堅苦しくない、休日仕様の楽し気な身のこなしだった。

「休みの日にすみません」

「行楽に行くんじゃなかったの」

 二人は、軽口混じりで挨拶をして、すぐに開け放たれた棚に取り付き、ルノアールの『少女』の探索に入った。絵の収納棚は三か所あり、大雑把に日本、西洋、東洋と分けて整理していた。それらの棚を、三人がそれぞれ手分けして探したが、出てこなかった。徒労感だけが残った。

「これだけ探しても見つからないんじゃ、実際にないってことじゃない」

 真っ先に畑石先生が弱音を吐いた。

「お昼に美味いものの出前頼んだから、もう少しだよ」

 皆橋先生が食べ物で釣って、畑石先生のスイッチを入れなおした。

「さてと、後はどこを見ればよいだろう」

 皆橋先生が諦めきれずに岡坂先生を見た。生徒の悲しみを思うと、どうしてもあの絵に出てきてほしかった。生徒の想いを叶えてあげたかった。奇跡でもいいからと皆橋先生はどうしても諦めきれなかったのだ。それは無意味な徒労に近かったかもしれないが、それでもいいから探そうとの執念になっていた。それが二人に伝播して、棚の残りの絵をことごとく調べ上げた。それでも出なかったが、これで諦めるだろうと思ったのに、皆橋先生は、さらに探索の棚を絵以外のところにも広げようといい出した。

 それにはさすがに若い岡坂先生の腰も引けたように見えたが、それに感づいた皆橋先生が気合を入れた。

「お昼には、美味いものが待ってるよ。生徒たちの幸せのためよ」

 生徒の幸せという言葉が耳に入ると、岡坂先生が頷いて、他の棚を開けようとした。

「岡坂先生。あそこの入り口に近い物置みたいなところには何が入っているのですか」

 畑石先生がふと気が付いて、岡坂先生に訊いた。

「ああ。あそこ。何も。なんか雑物がたくさん入っています。見てみます?」

 岡坂先生がそう言って、その一室に近づき、ドアーを開け中を覗いた。

「アレー、こんな所にあった。どうしたんだろう」

 中から現れた岡坂先生の手には、確かに額物に収まった絵があり、ルノアールの『少女』が部屋の明るさにまぶしそうにこちらを見ていた。

「ふあー。見つかって良かった。これで倫子の願いがかなうわ」

 皆橋先生が『少女』にまみえ、涙ぐんで畑石先生を振り返った。畑石先生もそれを見て、なぜか胸が熱くなるのを感じて目が潤んだ。

 九月になって、この高校の学園祭が開かれた。皆橋先生が顧問の演劇部の創作劇が披露された。演目は『消えた名画』というもので、四幕物の最終幕が演じられていた。

「学校の図工室から消えたルノアールの名画『少女』は二つあったのです。その間の事情を優海蓮子さん説明してください」

 指導教員の諸橋紀子が名指しした。

「はい。五年前、私の姉がこの学校の生徒でしたが、『少女』の絵がとてもほしくなって、美術の先生にくださる様お願いしたのです。先生の条件は同じに描けたらねと不可能を見越し約束したのです」

 ここで、蓮子は思い出を確かめるように一息ついた。

「どうせできまいとの先生の思惑を打ち砕いたのですね」

 諸橋先生が話を促した。

「はい。姉はそれから寝食を忘れるほどに『少女』の模写に没頭しました。そして学校のものと寸分違わぬものを完成させたのです。姉は学校の絵を家に持ち帰り、躍り上がって喜びました」

 蓮子は、このとき立ち上がり、舞台を歩きはじめ小躍りした。そして歩きながら話をさらに進めた。

「姉は病気で死にました。私は悲しくて、悲しくて、姉の形見として学校のものでなくどうしても姉の描いた『少女』の絵がほしくなったのです」

 蓮子は肩を落とし、泣き始めた。

「はい。分かりました。ここからは丸村欣也君が話してください」

 諸橋先生が欣也を指名した。

「泣かなくていいよ。後は僕が話しするから」

 欣也が椅子から立ち上がって、舞台の中央に歩みを進め、蓮子の肩に手をかけ慰めた。それから立ち上がって、経緯の説明を始めた。

「僕は、幼馴染の蓮子に頼まれて、悪いこととは知りながら、学校の図工室に忍び込み、『少女』の絵をすり替えたんだ。ただ蓮子の望みをどうしてもかなえてやりたいとの一心だけだった。それにしても絵のことは、とんと分からないけど、どちらの絵も同じに見えて、本当にすり替えたのか自信がないけどなあ」

 この最後のセリフが、この劇の重苦しい雰囲気を多少でも和らげる効果があったのは確かで観劇者に安どの気持ちを抱かせた。 

 校長室のソファーに皆橋、畑石、岡坂と三人の先生が座っていた。

「以上で、報告は終わりですが、付け加えて申しますと」

 皆橋先生が、ずり落ちそうになった眼鏡を指でなおしながらさらに続けた。

「ルノアールの『少女』はそれぞれ元の鞘に納まりました。そのときの美術の先生は、すでに定年退職をしており、今は居ません。私、この話を噂で聞いたことがあるんです。演劇のシナリオは弓月倫子が私と相談しながら自分で書き上げました。この件では、被害はどこにも起きてません。それで校長…」

 そこまで言ったとき、一人掛け用に座っていた篠谷校長が手をあげて、皆橋先生の話を止めた。

「芝居の話はそれまで、大変面白かった。それにここにおられる三人の先生方が劇中の登場人物になっているのだから、ちゃっかりしてるといおうか、仕掛けが奇想天外ですね。いやー。久しぶりに愉快になった。三人ともお疲れさまでした。ははは」

 篠谷校長が愉快そうに笑って、何事もなかったかのように陽気に、三人の先生たちを校長室から送り出した。












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