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「自分に厳しく」という甘え方をやめる。

自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ。

文芸評論家・小林秀雄さんの言葉です。この人の言葉にはいつも身を正される思いで、『人生の鍛錬――小林秀雄の言葉』は大学時代から何度も読み返し、そのたびに新しい発見が得られる大事なスルメ本です。

本質をつくような鋭い数々の言葉のなかでも、上記の言葉に出会ったときは特に大きな衝撃を受けました。そして思い起こされたのは、8年間続けてきたサッカー部時代の自分の姿でした。

誤った努力をしていたサッカー部時代のこと

小学校高学年のときにサッカーの魅力にとりつかれてから、青春時代の95%はサッカーのことを考えていた気がします。

中学サッカー部時代は、先輩たちの多くは学校のいわゆる不良グループ(一部流血事件はあったけど、部内ではよく面倒を見てくれて、さほど怖くなかった)。同期の多くは、そもそも練習に来てもらうのも一苦労なくらいの片手間参加感。特に僕の世代になってからは、試合は毎回ぼっこぼこにやられ、終業式か何かで校長先生から各部活の功績が語られたときには、

「バスケ部は〇〇大会で優勝しました」
「野球部は強豪○○中学を倒しました」
「そしてサッカー部は...」

サッカー部は...

「○○中学に引き分けました。立派です」

立派...引き分けがニュースというレベル。

一転して高校は「全国大会へ行こう」と意気込み、部員も多く、上下関係も上手い下手のヒエラルキーも色濃い厳しい環境でした。昔からクラブチームでプレーしてきたようなメンバーも多く、普通にやっていたらとても追いつけない。練習量とサッカーへの想いだけは絶対に誰にも負けないようにしようと心に決めました。

毎朝誰よりも早く朝練に行き、授業の合間に弁当を済ませて昼休みも練習、午後の練習のあとは居残り練習と筋トレ、オフの日もグラウンドに足を運んで一人黙々とキック練習(卒業までの目標はキックボードの左上隅の6番に何万回とボールを当ててぶっ壊すこと)。中村俊輔のDVDを飽きもせず毎日のように観続け、毎晩サッカーノートを書いて反省。

理系科目は大っ嫌いだったけど(化学のテストは12/100点、数学Bの三次元のベクトルのテストは2点/100点)、物理の授業は「真面目に勉強すれば、PKを絶対に決められるスピードと角度が割り出せるのではないか...」と無理矢理サッカーに結び付けながら授業を聞いていました。

そうしてすべてをサッカーにかけていたのに、プレーでの結果は出せずじまいでした。日々劣等感に苛まれてあまりにも悔しく、ますます練習量を増やし、結果、生まれつき悪かった膝はボロボロになり、アキレス腱に腰にと怪我三昧。医者からは何度も「オーバーワークをやめなさい」と怒られ続けていたけど、痛み止めや鍼治療で誤魔化しながら、姿勢を変えることはありませんでした。

「自分に厳しく」というアイデンティティにすがっていた

冒頭の小林秀雄さんの言葉で、特にこの高校時代の心理状態を思い出しました。

誰よりも打ち込んでいる(つもりの)はずなのに結果を出せない自分への嫌気から、それを打ち消すようにますます身を酷使していたあのとき。サッカーノートを読み返すと、日々自分を卑下するような言葉にあふれていました。

ただ、どこかそんな自分に酔っていたような気がしたのです。

「少なくとも自分に厳しくしている」ということが、実力がない自分の唯一のアイデンティティであり、すがりどころ。逆説的な言い方をすれば、がむしゃらな努力に甘えていたのではないか。

本当にすべき努力は、コンディションをしっかり整え、一人黙々と練習する以上にうまい人たちに教えをもらって、自己卑下する以上に前向きなメンタルを鍛えることであって、僕がやってきた努力は、盲目的でどこか言い訳がましくなかったか。

生活時間のほとんどを費やしてきた努力だっただけに、後年そのことに気が付いたときはかなりショックでした。が、気が付けてよかったとも思います。大事なのは、そこから何を学び、これからどうしていくか。過去は変えられないし、ショックはどうしようもないけど、それをどういう方向に持っていくかはいまの心の持ちようでどうにでもなる。

ということで、そこから何を学んだかをちゃんと書いておこうと思ったのが、この記事の動機です。

一番いい自分であれる最適温度を保つ

結論は、「自分に厳しく」という甘え方をやめようです。

厳しさは目的ではない。そうしてパフォーマンスが落ちていくのであれば本末転倒で、「少なくとも自分に厳しくやっています」という言い逃れは、本来挑まなければならない課題を覆い隠す、都合のいい隠れ蓑になってしまう。厳しさは、実はとても便利なものなのかもしれない。

本当に努力すべきことは何か。

それは、「一番いい自分であれる温度感」を知り、それを保つことではないか。そこにこそストイックになるべきではないか。

うしろめたくなるほどに緩めてしまうのも考えものだから、自分にとっての最適は緩さと厳しさを知ること。そしてときどき、コンフォートゾーンを抜け出して冒険してみて、気持ちのいい温度の幅を少しずつ広げていけたらベター。

いまはそう思っています。

誰かと一緒に何かに取り組むときには、必ずしも自分の最適温度で動けるわけではないかもしれません。相手にとっても最適温度があるわけで、温度の違いがあれば、いつもいつも自分にとってやりやすい温度でいられるわけではない。

ただ少なくとも、自分の最適温度を相手に知ってもらい、相手の最適温度をこちらも教えてもらう、そういう対話がもっと率直にあってもいいのではないかと思います。どちらかが無理をしているのは不健全だし、お互い無理をしていたら最悪。

「少しペースを落としたい」とか「こういう伝え方をしてもらった方がありがたい」とか、一緒にいいものをつくるためにこそ、遠慮せずに自分の心地よさを主張し合っていいのではないかと思います。

...

自虐や自己嫌悪、無理な厳しさというスケープゴートに頼るのはもうやめて、「一番いい自分でいる」ために何ができるのか、それを一番大切にしたいと思います。いい自分でいるために甘えるのは罪ではないし、よくない自分になってしまうほどの厳しさの方が、僕の場合は本質的な甘えにつながってしまう。そこをクリアしていきたい。

そう思えるようになったいまは、人生の多くを費やしたあげく苦しみ抜いたサッカーの体験も(もちろん楽しいこともちゃんとありました)、鋭く厳しい小林秀雄さんの言葉にも、心から感謝したいと思います。

※ヘッダー写真はスコットランドのすてきな田舎町・メルローズにある「スコッツ・ビュー」。同国を代表する作家のウォルター・スコットが愛してやまなかった光景。レンタサイクルで行こうとしたら貸し切られていて、片道10km以上の山道を徒歩で往復...なかなか暑い日でしたが、風景の写真を撮る奥さんの後ろで、ベンチに座ってリンゴをかじるおじいさん、というほのぼのした光景に心癒されました。過度に厳しくなってきたら、この光景を思い出すようにしよう。

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