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人間は悲しい気持ちを持ったまま他の感情を感じられる

「人間は悲しいままで、怒ったり怖くなったりできるんだよ!!」

先週末の24時間テレビの中で放送されたケンティー主演のドラマ、『石ノ森章太郎物語』の一節だ。

この物語は、
人々の心に深く影響を与えた石ノ森章太郎の作品の数々、
そして彼の人生を変え、彼の作品の礎となった姉・由恵との
家族愛、絆を描く物語です。
ードラマ公式HPより引用

大好きな姉が亡くなり、悲しさを忘れようと漫画に没頭する章太郎。それでも悲しみは癒えず、3年間の海外放浪に出た。何をしていても悲しみは消えないと、3年かけて気づいた彼は漫画をやめて実家に帰ることに。

そんな彼を止めたい親友の赤塚不二夫は、駅に向かう道中で章太郎の持っているかばんを橋の上から川に投げ捨て、さらに章太郎自身をも川に落とそうとする。

「怒ったか?怖かったか?」と問う赤塚に対して、
「怒ったよ!怖かったよ!」と答える章太郎。
「その怒りや恐怖で姉ちゃんへの悲しみを忘れたか?」
「忘れるわけないだろ!」

このやりとりのあとに赤塚の冒頭のセリフが続く。

悲しいままでいい。忘れたり乗り越える必要はない。

今までいやなことや悲しいことがあると、その感情を押さえつけ、何も感じていないふりで自分をだまし、平静を保って生きてきた。落ち込んでいることを誰にも悟られないように。

でもネガティブな感情にふたをする必要はない。そのまま感じていいのだと気づかされた。

でも私には大切な人を亡くした経験がないので、このセリフに込められた製作者の意図を性格には理解できていないだろう。

それなのに心を打たれたなんて思う資格があるのだろうか。

他者の思考や感情、行動はどんなことをしても絶対に理解できないと思っている。根本的な性格や育ってきた環境、これまでの経験などに基づいているのだから。

行動1つとってみても、その行動の理由は簡単に他者が理解できるものではない。

でも理解できないと割り切ってしまうのはだめなことで、理解できない自分は欠陥のある人間なのだと思っていた。

理解しようと想像してみるものの、それは「私」の思考や経験に基づいた枠の中におさまってしまうものであり、本当の意味で他者の気持ちを理解するのとは全く別のことだ。できないと分かっているのに、ずっと挑戦しなければならない生きづらさみたいなものを抱えている。

もちろん理解できないからといって、何をしてもいいわけじゃないし、理解しようとすることを放棄してはいけないことは分かっている。

ドラマを見る前日にあるブログ記事を読んだ。


私が抱えてきた矛盾に対する返事のように思えた。

理解できないことを肯定してもいい。

理解できない前提で始めること、自分の言動が誰かを傷つけてしまう可能性があること。それを分かった上で共に暮らしていきたいと書かれている。

つまり私がドラマを見て抱いた感想は、製作者の意図をまったく汲んだものではないのかもしれない。製作者の意図からかけ離れた感想だとしても、「これで合っているだろうか…」なんて思う必要はない。

私の考えたことは、一旦他者の思惑は置いておいて、尊重していいんじゃないか、なんてことを考えました。

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