ド三流のプリンシプル

*2016年8月23日に書いた記事のリライトです。

腰を据えて、積み重ねて、ひとつに決めて、一流に。
一端の社会人として、忠義を欠くことなく、まともに。
なろう。なるべきだ。ならなきゃいけない。そう自分に言い聞かせてきた。

「良く生きるとは」という人生への問いが、「上手く生きるには」「成功するように生きるには」という問いにすり替わってはいないだろうか。

最近気が付いたことがある。僕は「正しさ」や「キレイ」にはあまり惹かれない。
最高に心惹かれる「本当の美しさ」とは、もっとドロドロとしていて醜くて底抜けにエネルギッシュなものなんだ。

恥を忍んで、ここではっきりと白状しよう。
僕は変えることで、逃げ続けてきた。
変える、というのは一見してチャレンジングに見える行為ではある。
しかし僕の場合のそれは、チャレンジングに見せかけた、障壁からの逃亡でしかない。
人と違うことを選び続けることで、自分と他者の比較ができないようにする。
比較対象がないから、他人は自分のことを特別視してくれる。
そんな状況が心地よかったのかもしれない。

いくら人と違ったことをしているからといって、一定その状況にいると、似たような人は必ず出てくるもので。
比較されて、劣等感もって、興味を失って、そうなればまたすぐやることを変えて、違うことを始めようとする。
いつからかそれを延々と繰り返して。今。

僕は、また変えようとしている。これは逃げなのか。いけないことなのか。このままではじり貧になって、いつかは逃げ先もなくなるのか。わからない。
本当にやりたいことがわかったんです。なんてのは逃げ出すときの常套句で、本当は、本当にやるべきことをやるべきなんだ。

僕のやるべきことは何なのか。
ずっと、こんな悩みを抱え続けてきた。
でももういいんだ。社会不適合者で結構。
やるべきこと。本当にやりたいことなんて知らないし分からない。それでいい。
ただふっと心惹かれることを、無目的にひろげてみればいいじゃないか。久しぶりに乗った電車から見た真っ青な空。クッキリと影のついた躍動的な夏の雲。
その景色を見たときに胸に何かがトクトクと注がれて、満たされて。
そして本能的に感じた。
自由だ。間違いない。この世界は、どこまでいってもきっと果てしなく自由なんだ。と。

かつて、この手に掴んでいた未来もあったのだろう。でも僕はその未来を選択しなかった。
賢く生きるならば、そちらを選ぶべきだということもわかってるし、こちらを選んではいけないことだってわかっている。
けれどもまた僕は、きっと未来を捨てるんだろう。
そしてそれを繰り返して、行き着く果てまで進んでみるのも悪くない。
賢く上手く生きようなんて、一流になろうなんて、知ったことか。
空は青く、雲は白く、太陽は眩しくて、水は冷たい。生命は美しく、死すらも美しい。

…なんてカッコつけたことを書いてるが、要するにこれは開き直り宣言だ。
このブログのタイトル。ずっと無題のままだったけど、ここらでついにタイトル宣言。

『ド三流のプリンシプル』

「プリンシプル」とかカッコつけた横文字使うところが、またド三流っぽくてお気に入り。

ーーー

2019年10月24日 加筆;

この記事を書いた当時から、本質的には自分は変わってないなぁと感じる。
しかし、同じところをグルグルと回っているようにみえて、アップデートは重ねてきている、きっと。
今ならば、ぼくはただ逃げていただけではなくて、自分なりの戦い方を必死に模索していたのだなと、そして今もその戦いを続けているのだなと思える。

二流、三流、ド三流。それで結構。
胸を張れるとまでは言えないが、今はその生き方にほんの少しの誇りを持てるようになった。
真っ赤な鷹にあこがれて、ぼくの戦いは続いていく。生きるって戦いだ。

i hope our life is worth living.


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