真っ赤な鷹にあこがれて

寝て過ごすも一日。ただ、一切は過ぎ去っていく。

その日々に愛を抱こうが、後悔しようが、価値を見出そうが、見出さまいが、それらはなんの関係もなく。

ただ、一切は過ぎ去っていく。

無人島生活。95日目。

あと5日が経てばこの島を去り、おそらく、いやきっと、もう戻ってくることはないだろう。

立場をわきまえず偉そうに自分の哲学や思想を書きなぐってきた、この無人島でのエッセイもこれで最後になる。
自分のこれまでの学びの棚卸しのために、そして、とりあえず一度は世間様に見てもらおうという考えから、恥を忍んで書き連ねてきた。

とりあえず一通り書いてみての自分の感想は、「なんだか言い訳がましい文章を書くな。俺は」というのが正直なところ。
今まさにこうやって、自分の文章を卑下しているのも、誰かの怒りを買うことを恐れて予防線を張っているようで、ひどく言い訳がましくみえてしまう。

まぁそんなでも、とりあえずは一通り書きたいことは書けた。
だからとりあえずは、good enough(よくやった)と自分に一言だけ言っておこうか。
が、もちろん書きたかったことをすべて書き切れた訳ではない。
こんな文章や伝え方では、まったく、まったくもって全然ダメだということも身をもって知ることができた。
依然、not enough(まだまだまだまだ)という気持ちが、ぼくの大部分を占めている。

だが、これからの課題を知ることができた。
今後は、自分を主語としたエッセイのような文章を書くことは控えるつもりだ。
思想的な伝えたいことについては、一定、この機会に書き出すことはできた。
そして、僕に圧倒的に足りないのは表現力、「伝える技術」だ。
これからはそれの習得に全振りしていく。

下地はできたはずだ。
まったく、まったくもって自分の伝えたいことが伝わらずとも、その足りていないという現状を受け入れて、最後のエッセイまで投稿することができた。
そして、なにが足りていないかも知ることができた。
だから大丈夫。次に進める。それで十分だ。行ける。ぼくはもっと先へ行ける。

いまは、生き易い時代だ。

ぼくらはとても恵まれた時代に生きていると思う。
平和で、モノに囲まれ、情報も溢れ、生命の危機も少ない。
生きることが易しすぎて、もはやどうでもいいとさえ思えてくる。
無気力であっても、それなりに周りに合わせていれば、それなりに生きていけてしまう。
困難もなければ、飢えもなければ、乾きもなければ、欲もない。

豊かさが一転して、足るを知るどころか足るに飽きてしまい、たとえ全てがどうでもいいと思えてしまっても、ぼくにはそれを責めることはできない。
現代人が抱える虚無感の正体だ。

ぼく(たち)は、
全てがどうでもいいとさえ思えてくるこの世界で、どうでもよくないこととの出会いを求めているのではないだろうか。
どこででも生きていけてしまうこの世界で、生きる場所ではなく、死に場所を求めて彷徨っているのではないだろうか。
自分も含めて、いまの若い世代にはそんな雰囲気を感じている。

それぞれにそれぞれの舞台があり、戦場がある。
ぼくにはぼくの舞台があり、戦場がある。
それを見つけることができるのか、もしくは自分で作ることができるのか、それとも、与えられた場所にそれを見出すことができるのか。

もしかしたら、この世は生きるに値すると思えるためには、死ぬに値する場を手にすることも必要なのかもしれない。

不可思議ワンダーボーイという、ぼくの大好きなポエトリーリーディングラッパーがいる。
24歳という若さで交通事故によりこの世を去った彼だが、生前に発表された数少ない彼の楽曲は今なおプロミュージシャンを含む多くの人に影響を与えている。
間違いなく、彼もたましいの炎を運んだ真っ赤な鷹の一人だろう。

彼の死後、その音楽活動を辿ったドキュメンタリー映画が有志のプロジェクトにより制作された。
題名は「living behavior」
作中でインタビューを受けた詩人の谷川俊太郎氏が語った、イギリスの哲学者の言葉だ。

この世には2つの行動が存在する。
death avoiding behavior(死を回避する挙動) と、living behavior(生きる挙動)だ。

不可思議ワンダーボーイの人生は、まさしく living behavior だった。
死を回避して安全に生き延びることだけを優先しがちなこの社会のなかで、自分の死に場所を見出して全力で生命をぶつけて生きる彼の姿に、多くの人々は心を揺り動かされたんじゃあないだろうか。

真っ赤な鷹にあこがれて。
その身を焦がしながらもたましいの炎を運ぶ、真っ赤な鷹にあこがれて。
ぼくはこの無人島から、次の場所へとまた活動の拠点を動かす。

自分の立つべき舞台や戦場をこれまで探してきたつもりだったけど、
もしかするとぼくはもう既に、そこに立っているのかもしれない。
無人島を去る今、そんな気がしている。

表層的な仕事や生活の場所といった目に見えるものではなくて、もっと深い目に見えないところでは、もう既にそこに立っているのかもしれない。

無人島にきたからどうこうと人生が劇的に変わる訳でもなく、これからも人生は続いていく。
その人生のなかのただの一幕をこの無人島で過ごせたことが、ぼくにとってはかけがえのない意味を持っている。
無人島にきて、ただ100日を過ごした。ただ、100日が過ぎ去った。
それだけでぼくにとっては十分だ。

これから街にもどって、また多くの人と社会にもまれて生きていく。
無人島に一人でいるよりもむしろ、予期せぬハプニングが起きたりして退屈しなさそうだ。

たのしみだ。
これからまたどんな出会いがあって、どんな風に自分が変わっていくのか。
これからどのようにぼくは人と社会と関わりを持っていくのか。
これからも人生は続く。

たくさんの先達たちの背中に学びながら、真っ赤な鷹のひとりとなれるよう、これからも生きていこう。

i hope our life is worth living.



無人島生活99日目、夜。

無人島生活最後の夜、あたりがすっかり暗くなってから焚き火をした。

大事にとっておいたシナモンや砂糖とクリープも全部使ってチャイをつくって、そこにスキットルに入れて持ってきたウィスキーをちょっとだけ垂らして。
最初の夜と同じように、チャイを飲みながら焚き火をジーッと見つめている。

パチパチ、パキッ、パリッ。と、焚き木がちいさく爆ぜる音。
ジリリリリ。と、虫の鳴く声。
熾火の赤と黒のゆらめき、そして絶え間なく揺れてかたちを変える炎。

ひとり、ジーッと見つめている。

ふと、
今度焚き火をするときは、誰かと一緒に焚き火がしたいと思った。
友人や、その奥さんや子どもたちと。
今のところ予定はないが、もし自分にもパートナーや子どもができたなら、彼らとも一緒に。
一緒に焚き火をして、一緒に揺れる火をじっと見つめていたい。

会話はなくたっていい。
一緒に、じっと。
火の音、虫の声を聞きながら、じっと、火を見つめていたい。

そう思いながら、

ぼくは、最後のチャイを飲み干した。




*「真っ赤な鷹」についての詳細は、ぜひコチラの記事をお読みください。




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