見出し画像

人生の分かれ道

4月1日は、日本では新年度が始まる日であり、多くの人が気持ちを新しくして、未来に思いを馳せる日である。

一方で私は、その日、既にこの世にいないふたりの家族に思いを馳せる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第二次世界大戦のさなか、シンガポールで、ふたりの日本人の男が人生の分かれ道に立っていた。

時は1945年、片方の男には優秀な息子がいた。
日本に残してきた妻から「息子が海軍兵学校に入学することになった」との知らせが届き、男は驚いた。
息子はすっかり軍国少年になり、母の懸念をよそに「国のために命を捧げたい」と考えるようになっていた。当時なら至極当たり前に見られる光景だった。
優秀さが仇となったのか、当時は「東大よりも入るのが難しい」と言われていた海軍兵学校に、易々と合格した。

ところが男は喜ばなかった。男は南方で、日本の厳しい戦況を目の当たりにしていた。怒りと心配と焦りだけが、男の脳内をぐるぐるとまわった。

だが手紙でそれを書けば、危険なことは分かっていた。誰に開封されて見られてしまうか分からない。
今すぐ帰って直接、息子の顔を見て説得したいと、男は考えた。

一緒に漁業関係の仕事でシンガポールに来ていたもう片方の男は、傍にいてそんな甥の様子を見ていた。彼もちょうど日本へ帰る用事ができたのか、こう言った。

俺は飛行機で帰る、お前は船で帰れ。そうすればどちらかは最低でも生きて日本に帰れるだろう。それに飛行機より船の方が確実だ。

甥は、叔父のそんな提案に困惑しながらも承諾し、日本へ向けてそれぞれ出発した。

叔父は飛行機で、甥は息子のいる日本へ向けて船に乗った。

その船の名前は「阿波丸」だった。

台湾海峡を北上中の日本郵船の貨客船であった阿波丸は、1249トン、全長508フィートの大きさだった。

日本占領下の南方諸国の連合国側捕虜に約2000トンの救援物資を運ぶため航海の安全を保証する国際安導券を与えられ、シンガポールから帰る船であったという。

ところが阿波丸は、1945年4月1日、米潜水艦クイーンフィッシュの4発の魚雷攻撃により、SOS信号を発する間もなく沈没し、 息子を説得するために日本へ向かったその男含めて2000名以上が犠牲になった。

いっぽう、飛行機で出発した彼の叔父は、無事に日本へ帰還した。
そしてしばらく経ってから、阿波丸の知らせを受ける。

敗戦を迎えた日本では、海軍兵学校が解散され、失意の帰還を果たしたその息子は帰ってきてから初めて父の訃報に触れる。

自分を説得するために阿波丸に乗って、台湾沖に沈んだことを聞かされた。

海軍の上層部では日本敗戦を見越して、当時は敵性言語だった英語を海軍兵学校のカリキュラムに取り入れていた。そんな海軍兵学校でも、やはり日本敗戦は大きな衝撃とともに受け入れられていた。

敗戦後、さらに追い打ちをかけるように、故郷で父の訃報を聞き、息子はしばらくの間、自室に引きこもるようになった。手には兵学校の時に配られていた自決用の青酸カリがあった。

その年の暮れ、彼の従兄弟が心配して訪ねにきた。

息子はのちにその時の様子を、海軍兵学校の文集でこう書き残している。

(前略)家に帰ってからの二ヶ月の生活は、殆ど口も聞かず、家人も寄せつけない様な、一室に籠っての蟄居生活だった。(中略)暮れになって従兄弟が数日泊まりがけでやってきて、これからの人生の生き方について諭された。上級の学校へ行って勉強しなけりゃ、国のためにもう一働きしなきゃ、……文化国家の建設が必要なんだから、文科を受けなきゃ……等々の説教を世を徹してやられて、私も序々にその気になって行った。(中略)最初は暗く見えていた世の中であったが、旧制高校という素晴らしい環境に身を置くことが出来て、そこから私の二度目の青春が始まった。。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上が、私の曽祖父と祖父の物語だ。

初めてこの話を母から聞かされたときは「なんと酷な話だろう」と感じた。

幼い頃にその話を聞いた私の母は、この話をするときは必ず「ふたりとも飛行機に乗っていれば助かったのに」と付け加えるのを忘れない。

人生の分かれ道というのは、かくも残酷に立ちはだかるのだ。

「自分のせいで父は亡くなってしまった」と思って、祖父は自分を責め続けていたのだろうか。そう考えると胸が痛む。

台湾沖に沈んでいる曽祖父の魂と、桜の咲く霊園で静かに眠っている祖父の魂は、きっとどこかで再会を果たしている。私はそう信じたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?