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【毒白】ジャニーズの件で古傷が疼く

この記事には性被害に関する内容が含まれます。あらかじめご了承下さい。


海外のマスコミに端を発し、今や大きな社会問題となったジャニーズ性加害問題。
かつて話題になった告白本とその顛末に深い闇を感じていた私としては、ようやく天誅が下ったかという思いだ。

ところで一連の報道を眺めるうちに、ある古い記憶が蘇ってきた。
打ち明けた母に一蹴され、記憶の底に封印されたその出来事は、今思えば深刻な性被害だった。
もっともあの母なら今でも一蹴するだろうが、私の中で泣いているアダルトチャイルドを癒す意味も込めて、その一部始終をnoteに吐き出してみたい。


あれは父の転勤で、とある地方都市に住んでいた小1か小2の頃。
私は学校帰りにランドセルを背負ったまま一人バスに乗り、百貨店の上層階にテナントとして入るピアノ教室に通っていた。

年齢や場所を思うと今なら考えられない話で、現在中2のトラでも一人でバスに乗るなんて無理と言うだろう。
しかしあの頃は弟がまだ幼く、また真ん中っ子の私にとりわけ無慈悲な母は私の願いを決して聞き入れない人でもあり、私は逆らう気も起きなかった。

当時のピアノ教室は、今のようにレッスン開始時間が割り当てられておらず、来た者順に見てもらうスタイル。
レッスン時間そのものもまちまちで、やる気も才能もない私みたいな子は見るべき曲が少ないから短く、練習熱心な子には1時間以上もかけたりと、講師の気分次第だった。

そもそも受付が無く、来たら名前を書くわけでもなかったので、フラフラしているうちに順番を越されるなんてこともしばしば。
タイミングによっては2時間以上待たされることもあり、私は百貨店内をウロついたり、屋上に繋がる階段で同じように順番待ちをしている子と階段遊びやかくれんぼをしたりして、時間を潰していた。

あの頃は、低学年女児が一人で繁華街を歩くというのもさることながら、時間感覚も今とはまるで違っていて、大人も子供ものんびりとした時代だったのである。

さて話は少々脱線するが、待ち時間の私の一番の楽しみと言えば、昭和のデパ地下のシンボル「回るお菓子」だった。
あれはアフタヌーンティーのケーキスタンドのイメージなのだろうか?バイキング形式で量り売りのそれは、最盛期には地方のデパ地下でも2〜3基はあった。

キラキラ輝きながら回る(オルゴール風の音楽も流れていたような?)沢山のお菓子達に子供達は皆釘付け。
もちろん私もその一人だった。

ある時私は、バスに乗らずに徒歩でピアノ教室に行き、浮いたバス代でお菓子を買うというアイデアを思いついた。
だが子供料金のバス代で買えるのはほんの数粒の飴玉ぐらい。
上品そうに輝きを放っていたチョコレートや焼き菓子はある程度の重量になるように包装されており、とても手が出なかった。

帰りのバス代も使い果たし徒歩で家に帰る道のりはやたら遠くて、ランドセルがずっしり重かったのを覚えている。(Googleマップで距離を測ってみた所、片道3.5kmほどあった。)

本題に戻ります。

そんなある日、私はいつものように名も知らぬ子と階段遊び(グリコとか)をしていた。
やがて遊び相手はレッスン室に呼ばれ、私はひとりぼっちに。
そこで私は他の遊び相手はいないかと、屋上の方へ行ってみることにした。

屋上に出るドアは鍵がかけられていたが、踊り場には催事用の椅子やテーブル、看板などが雑多に押し込められており、子供らがかくれんぼをするには絶好の秘密基地だったのだ。

しかし踊り場には誰もいなかった。
仕方なく階下に戻ろうとすると、私の背後に若い男が立っていた。
濃いサングラスをかけ、その頃既に下火だったGS風七三分けの男は、何か話しかけながら近づき私の体に触ってきた。
突然のことで混乱した私は、男に逆らうことも逃げることも出来ず、ただ息を止め身体を硬直させるだけで精一杯だった。

というのも、あの頃は今のように不審者による事件はあまり報道されず、園や学校で不審者への対処法を習うこともなかった。
私は危害を加えられるかもという恐怖より、男を怒らせるのがとにかく怖かった。
子供がさらわれる事件(身代金目的の誘拐とか)は時々あったから、このままさらわれるのではないかという恐怖はあったかも知れない。

男の悪戯はわずか数分だったと思う。
どうやって解放されたのかは覚えていない。
覚えているのは、男に「もっと服を上げろ」と言われ仕方なく従ったこと、体を撫で回す男の手の感触が幼いながらも生理的嫌悪感でいっぱいだったこと、男が涎を垂らさんばかりに恍惚の表情を浮かべていたこと…

その後私は、どんなに誘われても二度と屋上に近づくことはなかった。

さて今振り返ると、我慢するだけで何も出来ず、また誰にも泣きつかなかった自分を情け無く思う。
何でもかんでも自分の問題として抱え込む癖がある私は、被害者なのに悪いことをしたかのような気持ちになり、ピアノ講師はもちろん百貨店の大人にも報告しなかったのだ。

しかし今の価値観で語るなら、次の被害を出さないためにも大人には報告をすべきだった。
ピアノ教室のあるフロアには、ピアノ以外にもバイオリンやお琴などレッスン室が幾つもあって、(私と違い)上品で可憐な女児達が多数来ていたのだから。

そんな私は、もちろん母親に話すのにも相当な勇気が必要だった。
普通の母親なら心を痛めるであろうその出来事を、母に話せば心配するどころか全否定されるに決まってる。
私が母への報告を躊躇ったのは、母の愛情不足を再認識させられ傷つきたくないという自己防衛もあったのだ。

案の定、恐る恐る母に言うと大声で一蹴された。

「それはやめてと言わなかったお前が悪い。
口があるのに何で言えないんだ、この小便タレ!」

いつもいつも私が悪いのだ。
30代だったあの頃も80歳を過ぎた今も、母は思いやりの言葉をかける素直さは微塵もなく、悪態をつくことしか知らない。
おかげで私は自分を愛せないどころか、いつも真っ先に自分の中に非を探す大人となった。

こうして思い起こしてみると、ロリコン男から性被害を受けたこと以上に、母に労いの一つもされず罵倒された心の傷の方がよほど深いことを知り、自分でも驚いている。

母が人を労われないのは、生い立ちが複雑で誰からも労わられずに育ったせいだと大人になってから悟った。(もちろん母には言っていない)
だから母がそうであるように、私の潜在意識に刻まれた傷も癒えることは無いのかも知れない。

しかしこの負の連鎖だけは何としても私の代で断ち切らねばならないのであり、トラの性格が実母由来の私ではなく(呑気者でイライラさせられるが)夫似で良かったと、しみじみ思うのである。

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