「今やろうと思ったのに!」の考察。

世間の親が
「宿題やりなさなさ~い」と言う。
すると子供がうんざりしたように言う。

「今やろうと思ったのに!」

これは、家事でも起こる。
自分から自発的にそろ~っと勝手に皿洗いを始めることや、アイロンを率先してかけたり、部屋のものを整理整頓したり、凝った料理を作ったりするのは楽しい。
けれど「今日はアンタ当番だよ」と言われたり「ちょっとは整理整頓して」と言われてムッとした経験はあるのではないだろうか。

「今やろうと思ったのに!」

仕事でも起こりえる。
「これは業務に入っていないけど、表にしておいた方がわかりやすいだろう」と自分の余力と善意を使ってでよかれと思って業務効率を思いやるうちは楽しいが
「それくらいやってくれ」と言われると、カチーンときたりするものだ。

「今やろうと思ったのに!」

このセリフに込められた思いは何か。

「自発をうばわれるムッ」ではないか?


「今やろうと思ったのに!」
この叫びの後に続く言葉、大抵飲み込まれてしまう言葉は何だろう。

「その自発的に動いた食指を、あんたは台無しにした!」が正解だろう。
つまり
「俺の・私の 自発モーメントを台無しにした!!!」の叫び。

子供にとっても同じだ。
自発的に算数にトライしたり、英文法に興味を持ったりするのは楽しい。
けれど、「やるべき」「やって当然」「やんなさい」「みんなやってる」「そんなのもできないの」になると、それは
「算数にトライする自分と算数の間の自発的でオリジナルの関係
ではなくなる。数字の世界に自分で手をのばしてみようかな~と思って手を伸ばし、そして触れてみる有機的な出会いの瞬間
「世間一般の小学生がみんなやること」になりさがってしまう。

家事もそう。本当は、生活というものは、どこまでもたのしんでよい、どこまでもありがたいものだと思いながら生きていい。「皿洗いと自分の間のオリジナルの時間」があっていい。
よく、「稼いだお金が全部生活費で消える」という話があるが、それの何が悪いのだ、とも思う。
生活のなにがわるい。
生活はとても価値がある。
でもそれが「やって当然の雑用」や「稼いで当然の最低賃金」に成り下がってしまう意味を自分の生活に受け入れるとき、もうそこにオリジナルの快を見出すことは不可能だ。

しかし繰り返しになるが、本来は、どの時間も尊い。
得意なことをやっている時間じゃなくたって、すこしはその時間に愛着を持てるはずだ。
何か、楽しいポイントや、自分ひとりの世界観なら覗けるはずの面白い部分もあるのだ。
鉛筆が紙を擦る音が好き、とか、業務で使うホチキスの触り心地がいいとか、そんなことでもいい。
それを大人も子供も感じ取ることはできる。一見ばからしいようなことでも、そこには快がある。

私たちは
オリジナルの快?そんなもの知りません、感じたこともない、私なんかにそんなものあるんでしょうか」
と言う。
でも、それはそう思い込んでいるだけだ。
実際一度でも
「今やろうと思ったのに!」
と声にだして、あるいは心の中で叫んだことのある人なら、それを知っている。


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