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自分が自分を分かっていればいい

割引あり

自分=世界 という話をYouTubeでしました。

この「自分と相手がお互いに創りあっている」という話になると、こんな問いが必ず生まれます。

Q. 自分が相手も作っているなら、相手にも自分が作られている。
それなら、自分が観察すれば自分の創造になるけれど、他人が観察すれば、自分の言動も他人の創造になるということ?
他人の世界の中での自分の役割や、自分の言動、などについて考えると、よくわからなくなってしまう。

(セッションをお受けいただいている方々からの問いを、組み合わせたものです)


これに関しては、「自分の世界は全部自分のものだから、自分を整える」というシンプルな解釈をおこなっていただくことで解決されます。

とても重要な観点なので、詳しく説明していきます。

まず方向性をざっくりお伝えすると

各人が1人1つ自分のオリジナルな世界を体験するだけという視点にもどり、自分を集中して扱っていくシンプルさに戻ればOKという方向性です。

それを特にがんばらないでも他の人の世界と整合性が取れてしまうのが、私たちの意識のすごさです。

たとえば、私の場合は、声しか認知されていないので「フェリファブ像」が視聴者さんの数だけあります。

そして、どれも真実であり、どれも私ではありません

けれど視聴者さんのなかでの「フェリファブ像」は、それはそれで、その方たちにとってはひとつの真実です。
なぜなら、その観察者はその方達であって、私ではないからです。

私はそれを否定する力を持たないし、それは彼ら世界には確実に存在している

私が作っているのは、私の視点からの世界だけ、つまり自分の世界だけです。

そしてそんな様子であっても、フェリファブという存在と、それを聞いてくれる人、という関係の整合性は成り立つ

これは、「日本の中のヨーロッパ像」に似ています。
日本人が想像する「ヨーロッパっていいよね、素敵だよね」という感覚は、実際のリアルなヨーロッパとは異なります。また、欧米の人がアジアに対して抱くアジアも、実際のアジアとは異なります。日本人がカレーだと思っているものも、インドの本場とは異なりますが、日本人たちはそれを愛し、楽しんで、幸せに生きている。欧米人も「欧米の日本」を楽しんでくれている。それで世界は円満に成り立っている。

それを「本物は違うんだ!」と言うのは野暮です。

つまり、意識の数だけ自発的な解釈があり、世界がある。その解釈は”その意識にとっては”「真実」で「ちゃんと存在している」ということ。

つまり、Aさんバージョンのあなたもいれば、Bさんバージョンのあなたもいます。
あなたのことを「いい人」と言う人もいれば「苦手な人」という人もいる。

これは、各人が各人の世界で捉えている「あなた」であって、それはオリジナルのあなたとも異なる。あなたではないものです。

また、1人の人が観察している「あなた像」はまた別の他の人が認識している「あなた像」とも異なる。
感じている受け手の数だけ多種多様で、かつその受け手にとっては超オリジナルな「あなた」なわけです。

そしてその認識をすり合わせ、「同じものを見ている」と私たちは信じ込んでいる。
つまり、整合性があってしまう。

だから、あなたは他人の世界の中での自己像を特に気にせずに、あなたの超オリジナルな人生を生きるだけでいいのです。

それが他の人からどう見えるかは、自分の領分ではありません。

たとえば誰かがあなたを「努力家だ」とか「怠惰だ」とか「恵まれている」とか「効率が悪い」などと言っても、「それは”あなた(話し手)”の世界の私ですよね」ということ。(ひろゆきさん風に)
いいことも悪いことも含めです。

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