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「冷蔵庫の余りものでまかなう」思考と、ブリコラージュ。

ひき肉がない → ツナ缶を引っ張り出してきて調理した、即席ピーマンの肉詰め(もどき)。
ありあわせのもので作った料理が、思っていた以上に悪くなかったときは嬉しい。
料理にかぎらず、試しに作って思わぬものができた時、頭の中にあたらしい回線が走ったような気持ちになる。
2020年は、人によってはこうした「ありあわせ」の豊かさを見直すキッカケの年なんじゃないか、とも思う。

高校時代に部活の副顧問だったO先生が、今年(2020年)の4月に長野県のとある高校の校長として赴任された。ブログを拝見すると、コロナ禍において休校を余儀なくされた高校生たちに以下のような呼びかけをされた。

部活動が自粛と言っても、家でできる個人の活動をみんなで横につなげれば、何かができる。
素晴らしい取り組みには、校長主催の『ブリコラージュ賞』を贈る。

「ブリコラージュ」とは、

目の前の課題に、自分の知識と経験を総動員して乗り越えること

とO先生は書かれています(レヴィ=ストロースの説明も入れながら)。
たしかに、「目的」や「目標」という大義名分で、自分の外部のものに憧れ、それを自分のものにしようと励む風潮は現代にあるでしょう。

こうした文化人類学者レヴィ=ストロースのブリコラージュの方法論を、
発酵デザイナーの小倉ヒラク氏は、

最初に用意された見取り図に従ってものをつくるエンジニアリングではなく、手元にある素材と相談しながらものをつくるブリコラージュ

とも説明している。
秋田のとある造り酒屋さんの取材を通して、

一般的な正解にあわせて外から素材を調達するのではなく、自分たちがもともと持っていた素材を点検し、その適性を最大に活かせそうな組み合わせを考える

という視点を提示されている。(出典:『ちゃぶ台』ミシマ社、2018年。)

2020年は、自分たちの手元・足元にも目を向け直す契機になっていそうだ。
ここで私がふと感じた疑問↓

なぜ、遠く、外部から必要なものを持ってこないといけない社会システムになっているのだろう?

次回は、こんな疑問をふまえながら、木村秋則さん(『奇跡のリンゴ』)の提唱する「自然栽培」の考え方とも絡めながら、書いてゆきます。

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