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【映画】ドライブマイカー

舞台役者から監督になった夫と、脚本を書く妻、理解しきれない、つかみきれない、確かにお互い愛しているのだけど、どこか向き合いきれてない。そういう、どうしても解せなかったものの正体が、関わる人たちを通じて徐々に見えてくる。観る人にいろんな形の癒しとなって届きそう。

序盤、揺れながら物語を紡ぐ妻をとても直視できず、目を背ける夫…(思えば、すでに盛大なフラグ)
中盤、韓国人夫妻の愛に満ちた表情が目に焼き付いて離れない。
終盤、音が一切なくなるところで鳥肌が止まらなかった。

先に逝った大切な人への思いが重すぎて痛い。苦しくてたまらないけれど、何をどうしたところで、抱えて共に生きていくしかない。完全な安息が訪れる日は来ないであろうことを、心のどこかどころではなく、全体で感じている。一生を終えてもなお、心の平安は訪れないかもしれない。日常での演技を脱いでやっと、この苦しみを吐露できた主人公に対して、終始表情の乏しかったドライバーが捧げるこれ以上ない理解は、癒されきることがない中での最大限の温かさで。その痛みと癒しが、劇のラストの手話のところと完全にリンクして、終盤はもうずっと泣きっぱなしだった。


個人的にざくっときた言葉は、以下
細かい表現は実際と多少異なるかもしれませんが

「私は、伝わらないことが当たり前だから」
「他人を知るために、自分の心を見つめる、
 自分の心を知って折り合いをつけていくしかない」
「僕は正しく怒るべきだった」

人とつながりたければ、まずは自分と向き合うしかないんだということを、ここ数年、イヤというほど思い知らされている。生き延びるための手段として、自分の本音にフタをし続けてきてしまったのを、なんとかしようとしている。自分をどれだけ理解し受け入れているか、結局それが人をどれだけ受け入れられるかに直結しているんだと、書くことは簡単だけど、この映画で描かれている域には、私は全然辿り着いていないと思う。

素直にさらけ出すのは怖い。また受け止めてもらえないに違いない、と思ってしまう。でもそれは、他者不信というよりも自己不信。私を受け入れなくたってその人の勝手だし(相手を受け入れないのだって私の自由だ)。でも、私の心は、いいかげん外に出たがっている。痛いの怖いけど、大きく傷つくことがあったとしても、今の自分ならもうきっと、ちゃんと生き返れそうな気がする。強くなり、でもまた泣き、また立ち直り、の繰り返し。やっと人間っぽくなってきた。

今みられてよかった一本でした。

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