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興味を感じるメカニズム

今日ツイッターで興味深い投稿を発見した。 イベントに来ている学生が「自分の知っているものがなくてつまらなかった」と言ったことを聞いて愕然とした、という内容のものだ。 リンクだといつ消えるかわからないが、一応元ツイも貼っておく、と思ったら案の定消えていた。
まぁそういう趣旨のものがあった、という話だ。

いきなり僕の話になるが、僕は活字ジャンキーであり情報中毒者でもある。
どんなものであれ文字がそこにあったら読まずにはいられないし、情報はいくらあっても足りるという事はない。
世の中には知らないことばかりだし、それを片っ端から知ろうと手を伸ばせば伸ばすほど芋づる式に未知のものが増えていく。こんなに楽しいことはない。
そういう僕からしたら、まず「知っているものがなくてつまらない」というのはまさに想像もできない意見なのである。

しかし、だからと言ってこの投稿にある学生が悪いという事でもない。
知識は持っていた方が何かと役には立つが、持っている人が優れている訳でも何でもない。僕は優れていたくて知識を増やすのではなく、ものを知らずにはいられないから増やしているのだ。

「知っているものがなくてつまらない」と書くとさも無気力な若者の声に聞こえるが、「知っているものがなくて楽しめなかった」と表現したら共感の声も少しは増えるのではないだろうか。
人は基本的な好奇心というものは本能として備えているが、それと同程度に「お約束」を欲する生き物でもある。
ネットミームはノリがわかっているから使われるし、水戸黄門は毎週同じパターンで印籠を出す。朝倉は先輩に怒られるから面白い。
お約束は結末を知っているからこそだ。アンパンマンのあらすじに「どうせ最後はアンパンマンが勝つからつまらないよ」と文句を言う人はあまりいないだろう。

いや、俺は常に新しいものを模索し続けている、と言う人だっているかもしれないが、必ずどこかはお約束で繋がっている。
人間の創作の全ては模倣だ、という言葉があるが僕はこれは間違っていないと思う。
思想であれ技法であれ発想であれ、人間の創作に完全なる新作というのは存在しない。どんな作品もその人の人生からしか生まれないのだ。
人生が壮大なインプットであるならどんなアウトプットも必ずインプットの変形物には違いない。

アウトプットの方に話が言ってしまった。閑話休題。
つまり僕が言いたいのは、僕とその楽しめなかった学生の間には「お約束」に対するちょっとした閾値の差しかないのではないか、という事だ。
僕は知らないことはなんでも知ろうとするが、何かを学ぶ時には当然だが既知の概念を使って新しい概念を紐解こうと試みる。だから本質的にはどうにかして知っているものをその未知のものの中に見出す訳だ。
例えるなら未知の概念という島にたどり着くために既知の概念を使って橋を架けるようなイメージだ。
件の学生もきっと自分から「知りたい」という気持ちをもってイベントに来ていたらきっと多くの経験を吸収して帰った事だろう。
今回はその学生は「知っているものを見て楽しもうとして」来たら知っているものがなかった、だから期待とは違って楽しめなかった。という事なのだろう。
両者の間にあるのはどれだけ既知のものを期待しているか、という差に過ぎないのではないか。

仮説を立てよう。人の興味が湧くには「タイミング」「能動・受動」2点が重要なのではないだろうか?
「知りたいことを学ぶのは楽しいけど今じゃない」とか「興味があるには違いないけどいきなり詰め込まれてもその気にならない」とかそういう意見に限定したらそれなりに賛同する人はいそうな気がする。

昔話で恐縮だが、僕は昔中学生の家庭教師のバイトをしていた。
成績で言ったら下から数えた方が早いような子を受け持ってどうにか普通レベルにしてほしい、という要望を拾う方針の会社だった。
長期で受け持ったのは3人ほどだったが、彼ら彼女らは最終的には学校の勉強に興味を持ってくれて成績もそこそこ上昇してくれた。
僕が彼らと話す時に気を付けていたのは、兎にも角にも興味を持ってもらう事だった。当たり前だ。興味のないものを覚えるほど人間は暇ではない。大半の大人だって金を貰うために必要だから仕事を覚えようと無理やり興味を持っているのである。
ましてや中学生なんて義務教育だから必死にならなくても卒業は出来るしまだ勉強の大事さもわからない年頃である。いつの間にか躓いてしまって教師の言うことが呪文に聞こえだしたら勉強なんてそりゃあつまらないだろう。
だから僕は彼らにとって未知の領域となってしまっている勉強に対して既知のものを取り入れるようにした。
その子の興味のあるもの、好きなものを聞いて、それに対して質問をしてそれについて二人でそれぞれ理解を深めていくのである。
僕は何の話が来ても面白くて仕方がないので延々と聞いていられる。生徒は自分の好きな話であれば、と積極的に話してくれる。
暫く話して理解が深まったら、目の前の課題とその好きなものを繋げてあげるのだ。

バイクの好きな生徒だったら三角関数がどう使われているのか、今目の前にある方程式はどう当てはめたらバイクに繋がるのか。そういったことを話してみせる。
僕は口からリアルタイムで出まかせを言うスキルに昔から恵まれていたので、この辺は全く苦にならなかった。何となく話し始めれば、自分で話している内容を自分の頭で聞いている内に何となく繋がっているところが見えてきて、何となくそれっぽい結論に着地できる。
別に厳密に論を組み立てる必要はない。要は彼らに「勉強は地続きの世界にあるものだ」という事だけ教えてあげられればいいのだ。

上述した「タイミング」は、ちゃんと話を聞いてからそれに対して対話をしながら返すという事。
「能動・受動」は受動に感じたものを好きなものという能動側から歩み寄ることにより能動に切り替えてしまう事。
やはりどちらも自発的な興味を生み出すには欠かせないだろう。遅ればせながら僕も今この持論に気が付いた。当時は「面白おかしく説明すれば興味を持ってくれるだろう」くらいにしか考えていなかった。

今こうして書いている内にまた気が付いたのだが、僕のこのリアルタイムそれっぽいこと生成スキルも今までの膨大な好奇心から生まれてきたのかもしれない。
未知のものを知ろうとするとそこには必ず既知のものが必要になる。即ち共通点を探す行為だ。
これを飽きるほど繰り返す内に異なるものの間に共通点を見つけるスキルが磨かれたのではないだろうか。
それっぽいことを言う他にも僕は例え話をよく用いる。それによりうまく伝わっているかは聞いたことがないので知らないが、説明がわかりやすいとはよく言ってもらえるのでそう外してもいないのだろう。

これらのスキルが磨かれると知らないものへのハードルはどんどん下がる。あらゆるところに既知のものを見つけられるからだ。共通点が見えていない人よりも安心して未知のものに挑むことが出来る。
そう、既知のものを見て安心するという行為は他でもない僕もやっていることなのである。
だから僕と冒頭の学生の間、更にはそれに衝撃を受けたというツイ主の間にも劇的な差なんてないのだろう。
みんなそれぞれがどれだけ未知のものに対して突発的な免疫があるか、と言うだけの差異に過ぎない。

こうして書いている中で僕の自分の中の考え方にはもう一つ気づいた点があるが、本旨からは外れるしまた長くなるので別の機会に譲ることにする。
あるものがつまらないと感じる人は、もしかしたらそれらの中にある面白いものが見えていないだけかもしれない。
自分の好きなものから徐々に地平を広げていけば世の中には面白いことの方が遥かに多い。せっかく生まれた人生なのだから面白いことを増やしていった方がきっと楽しいと思う。

文章を書くと毎回この辺りの締めの文章に迷う。途中は頭に浮かんだことをキーボードに叩き付けているだけだが頭の中の考えは締めるという事をしないからである。
先日妹からは「考え続けてないと死ぬの?」と聞かれた。多分そうだと思う。
という訳で収拾がつかないのでこの辺で締めることにする。
また別の記事でお会いしよう。

以上、リコでした。

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