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人生の方向性を決めるのは「可能性」ではなく「不可能性」である

「人には無限の可能性がある」という言葉は度々口にされる。
僕個人としてはこの言葉にはそこまで懐疑的ではないが、それにしても不可能なことはあるだろう。
ただ、実際に不可能である可能性は恐らく他の人々が考えるよりももっとずっと範囲が狭いものでしかない。
少なくとも個人の狭い視点から考えるならば「可能性は無限大である」と言っても概ね間違いではないだろう。

ではなぜ今回わざわざ「不可能性」を取り上げるのかと言えば、可能性は羅列することにすら能力が必要だからである。
知識や文化、考え方の特性などにより可能性という檻は容易に狭くなる。英語が出来ない人が、自分がソマリ語が得意になれる可能性を考えるだろうか。
可能性にしか目を向けないでいると実際の可能性よりもよっぽど狭いところで自らの資質を見つけることなく埋没していくことになってしまう。
これは少年期や青年期に限った話ではなく成年後にも当てはまる。30だろうが60だろうが90だろうが可能性に底はない。
それを可能性に着目するよりも確実に考えることが出来るのが不可能性だ。

例えば僕は裸眼視力は0.1を下回っており、身長が170cm台後半、一般的な企業に勤める一般的な成人男性である。
この僕がパイロット、ジョッキー、プロボクサー、チェスの世界チャンピオンになれるかを考えてみよう。
まず、今パイロットとジョッキーの試験を受けて受かるだろうか。受かるはずがない。能力の話ではなく視力や身長が身体的に、数字的に合致しないからだ。これが「不可能性」の一つだ。
では今からプロボクサーにはなれるのか?身体は細いし仕事はデスクワークばかりだが、これは不可能とは言えない。少なくとも今の時点で不可能と断じるだけの根拠はない。
チェスの世界チャンピオンには?これもなれるかどうかはわからない。ボクサーと同じだ。チェスのルールを覚えられる以上、不可能を断じる根拠はどこにもない。
今不可能と決まっているものではない、というだけの話だ。
これが本当の「可能性」である。
これを可能性ベースで考えると「プロボクサー?やったことがないし出来る訳がないよ。そんな可能性はないね」といって不可能に分類されてしまう。
やったことがないのになぜ不可能だとわかるのだろう?
これが可能性ベースで考える事の欠点である。

多くの現代人は可能性ベースで考えることが染みついている。
出来ない理由を探すのは簡単だし、やらなければ達成されることは絶対にない。だから自分の予想と結果は決して食い違わない。やれるはずがないと考えてやりもしないのだからやれるようになるはずがない。
そうして人々はいつしか「出来ないと考えたこと=実際に出来ない」という無用な公式を自らの中で強固にしていくのである。
しかし、不可能性を定義するのはそれよりも少々面倒だ。
不可能である根拠が絶対的でない以上は可能である可能性が残るからである。やったことがないのは不可能の根拠になるのか?NOだ。
やる前から向いていないと判明する根拠は?そんなものあるはずがない。

僕の世の中には「出来る」「出来ない」ではなく「やる」「やらない」「やれない」しかない。
仮に、人の剝製を作ってみたいという願望を持ったとして、それは不可能性ベースで考えれば可能である。どこかで誰かを殺害して剥製にすればいいのだから。
しかし僕の考え方では人を殺すことはない。法律で決まっているからではなく、自分の寝覚めが悪くなるからだ。捕まるかどうかを考えるのも面倒だし、逃げ回る生活も性に合わない。殺す人間を選ぶ事も判断に困りそうだ。内臓を処理するのだってきっと大変な比率の方が大きい。
だからこれは可能であるがやらない、という結論になる。
そのようにして、あらゆる物事は「やる」「やらない」「やれない」に分類される。パイロットやジョッキーは「やれない」で、殺人は「やらない」だ。
逆に考えれば「やらない」ことと「やれない」こと以外は全て出来るということになる。
30歳になってから触ったこともない楽器を新しく買ってみる。これは楽しそうだったから「やらない」訳でもなく、手があるのだから「やれない」理由もない。だからやった。
結果的にちょっと曲が弾けて一人で十分楽しいと言えるレベルにはなった。これは出来る人間かそうでない人間、という区分けではなく、やった人間かそうでない人間というだけである。
僕はこれから絵を描くことにもチャレンジしようと思っている。教科書の落書きレベルでしか描いたことがないから今はヘタクソだが、楽しそうだし上達することを不可能と判断する根拠もないからだ。
絵を描ける人間が音楽が出来ない道理はないし、逆もまた然りだ。どっちもやってみれば出来るようにはなるだろう。
出来ないよ、と言うのは非常に簡単だが、言った時点でその可能性は実際に可能であるのにも関わらず閉ざされることになる。
自分の持つ可能性の扉を開くのも閉じるのも個人の自由だ。好きにすればいい。
しかし考えも試しもしない内から次々と扉を閉めていって「自分は凡人だから何もできない」と嘆くことは人生の充実には程遠いと思うのだがいかがだろうか。

人生を決めるのは可能性ではない。不可能性である。
不可能でないこと以外は僕らはなんでもできる。そこに能力は関係なく、やるかやらないかしかない。
タイムトラベラーにはなれないがYoutuberにはなれるかもしれない。
瞬間移動は不可能だがこれからの人生で大金持ちになることは不可能ではない。
どれだけ不可能を積み重ねたところで自分の人生の道が一本に定まることなどない。数少ない不可能を不可能と断じたところでまだ可能性を挙げきれないほど人の人生は分岐に溢れている。
だから人間は素晴らしい、という話ではない。取り組まない内から可能性を潰すのは非論理的でメリットもない、という話だ。
君はなんにでもなれる、という理想論の話ではない。それを不可能と断じる根拠があるのか?という論理の話だ。
出来なかったことの大半はやらなかったことでしかない。
やりたいけど出来ないと思っていることがある/あったのなら不可能かどうかを今一度吟味してみてはいかがだろうか。

以上、リコでした。

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