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さよならタンス君 僕はいつも近藤健介に小笠原道大を見ていた

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さよならタンス君、コンちゃん

僕はいつも近藤健介に「小笠原道大」を見ていた 

 

近藤健介選手を、僕は常に、ガッツ小笠原道大選手と重ねて見ていた。

     2011年秋のドラフトで、北海道日本ハムファイターズに4位指名され、横浜高校からプロ入りした近藤健介。捕手だった。背番号は54。右投げ左打ち。

    その15年前の1996年、東京時代のファイターズに3位指名されたのが小笠原捕手だった。やはり右投げ左打ち。

     近藤がドラフトされた年、ファイターズの1位指名は東海大の菅野投手(現・巨人)。常にその年のナンバーワン選手を真っ向から指名するというファイターズが、その方針を貫いて、「伯父が監督をしている原巨人にしか入らない」という菅野を指名した。そして、抽選で巨人に競り勝つ。しかし、菅野投手は入団を拒否して浪人。翌年巨人の単独指名でプロ入りした。

  1位不在となったファイターズで、実質トップの2位指名・松本剛に僕は期待をかけ続けてきたが、出場機会に恵まれなかったり怪我に泣いたりした苦難を乗り越えて昨季2022年、堂々、首位打者に輝いたのは本当に嬉しい出来事だった。

 石川慎吾(3位)や上沢直之(6位)に挟まれて4位指名されたのが2人と同じ高校出の健介だったが、この年、ドラフト後の注目は、菅野の去就に加え、ソフトボール界の強打者、大島匠捕手(7位・早大ソフトボール部)の指名に集っていた(大島氏はファイターズ退団後、高崎市で公務員として勤務しているとか)。

 ちなみに僕は、この年の新人6人が一枚の色紙に寄せ書きしてくれたサインを持っている。「54」という数字の入った近藤のサインは、今となっては貴重なものだ。

  鎌ケ谷における新人交流会で、近藤健介自身がファンの前で語った言葉を、僕は2012年1月14日のツイで次のように記している。
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 YATUーFーKOMA @YATUKOMA

④位 近藤健介捕手(横浜高)右右・背番号54 171cmだけどアジアAAAの日本代表にも選出された頭脳派捕手 CP=ホクロ 愛称タンス(幼いファンが付けて賛成多数) 93.8.9生 #lovefighters        posted at 21:12:49

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 なお、CPとは、本人が語ったチャームポイントのことです。

この日、会場のファンから募った愛称で、近藤は「タンス」と決まった。少年の一人が叫んだ、その一言に、みんななんとなく納得し、拍手多数。本人も納得していた様子。171センチの身長で、走り込みの成果だろう、とにかく太股だけは太かった。そのガッチリした体躯は、タンスを連想させた。

  タンス君の1年目、前年から就任していた栗山英樹監督のもと、ファイターズはリーグ優勝を遂げた。開幕戦の先発に抜擢された2年目の斎藤佑樹が完投勝利を挙げ、チームに勢いをつけた。

 打撃ベスト10に糸井、賢介、稲葉、陽・・・と4人も並び、中田翔は低打率ながらリーグ2位の24ホーマーを放ち、ダルビッシュがメジャーへと去った投手陣の中で、覚醒し一気にエースへと駆け上った吉川光夫が14勝を挙げ防御率1位とリーグMVPに輝いた。
   武田勝11勝、ウルフ10勝の3本柱。救援陣も、宮西→増井(最優秀中継ぎ投手)→武田久(2年連続セーブ王)と万全。

  そんな2012年、新人近藤選手は、開幕は二軍で迎えたものの、打者の中では唯一人、一軍出場を果たした。捕手として15試合、代打で11回。

    夏場以降、起用され始め、捕手として先発出場も。球団史上、高卒捕手が一軍公式戦に出場した例も、先発出場した記録も、どちらも前身の東映にまで遡らなければならない出来事だった。

    代打では2安打1四球2打点1三振。高校出新人で代打に起用され三振が1度しかないことが打撃センスを窺わせる。代打から、そのまま捕手としてマスクをかぶるケースも何度かあった。

  その年の日本シリーズは巨人(讀賣ジャイアンツ)と

    敵地東京ドームで始まった2連戦に吉川、武田勝で敗れ、札幌で2勝したものの戻ってきた東京ドームで負けて結局2勝4敗で終戦。2009年の梨田時代のリベンジはならなかった。

    なんだか僕は東京ドームで巨人に負ける日本シリーズばかりを見てきた印象がある(ファイターズが初めてリーグ優勝した後楽園時代の1981年も含めて)。

  話を近藤健介に戻すと、2012年の日本シリーズ、栗山監督は、大事な初戦も2戦目も新人近藤を代打として送り出している。そして最終戦となった第6戦も。

    東京ドームでの3度の起用でヒットは出なかったが、栗山監督の近藤への期待ぶりが強く印象に残った。監督が近藤の力を高く買っていることが伝わってきた。

    3年目のシーズンを迎えた捕手近藤が、さかんに三塁手として使われたり、ショートの守備にさえ就く姿を見たとき、その想いはいっそう濃くなった。(タンスだけに「ひきだし」は豊富?)
 

 一方、小笠原道大は、千葉の暁星国際高当時は全くの無名選手で、卒業後、社会人野球のNTT関東に進んでいる。3年目の大会で活躍したことでスカウトの目にとまり、ドラフト3位でプロ入りした。

 同じ秋、西武の4番打者・清原和博一塁手がFAで巨人入りしている。そのため、同じ一塁手で4番を務めていた落合博満(中日からFAで94年巨人入り)が、退団を申し出て、在京球団のヤクルトと日本ハムとで争奪戦が始まった。その結果、落合は日本ハムを選択。フィターズにとっては、オフの補強戦線では珍しい、大物獲得となった。 

 つまり、新人・小笠原は、球界の4番打者・落合博満と同じ年に、日本ハム・ファイターズの一員となったのだった。

    ほぼ無名の新人と、球界の超大物。ただ、小笠原の背番号は「2」で、主将・広瀬哲朗の「1」と落合の「3」とに挟まれた番号。将来を期待されていたことが窺える。 

 その小笠原はプロ1年目の1997年から開幕一軍入りを果たしている。

    正捕手不在で2人併用(田口・山下)のなか、第三捕手として38試合に出場。代打には14回起用され5安打2打点の成績を残している。

  私が近藤健介を小笠原と重ねる基となったものは、今思い返せば、小笠原2年目のシーズンの印象だった。

 出場試合数は71と前年より倍増したが、捕手としては20試合のみ。代打での起用がチーム随一の68回に及び、代打での打率は3割近い2割9分3厘、代打での打点もチーム最多。

 ちなみに、捕手としての出番が減ったのは、この年、ヤクルトから野口寿浩捕手を、開幕直前、急遽獲得したためだった(城石憲之内野手と交換)。野口は古田敦也の陰で全く出番に恵まれていなかったが、このトレードで一挙に開花し、日ハム時代、球宴にも2回選出されている。城石選手は引退後、2015~2021年にファイターズでコーチ。 

 この1998年(平成10年)は、東京時代からのファイターズ・ファンにとっては、けっして忘れることのできない、痛恨のシーズンとなった。

 闘将・上田利治監督のもと、エース岩本勉と「ビッグバン打線」と命名された強力打線で、ペナントレース前半を2位西武に10ゲーム差をつけるぶっちぎりで独走。大沢親分で1981年のリーグ優勝、翌年の後期Vを果たした(プレーオフで西武に敗れリーグ2連覇は成らず)以降、長期低迷の中にあったファイターズが、久々に優勝の歓びを手にするのは確実と誰もが考えていた。

    ところが、8月以降、プロ野球史上に残る「大失速」で、優勝を逃したシーズンだった。9月下旬に遂に2位に転落後、最後の望みを託して10月初めの首位西武との直接対決を観に西武球場まで駆けつけたが、あえなくダブルヘッダーを連敗。万事休すとなった。

    そんなシーズンの中で、2年目の小笠原は、しばしば大事な場面で、前記の通り何度も代打に起用された。

    そのとき感じられた、上田監督の小笠原への“期待度”と同じ空気が、十数年のち、栗山監督が代打に高校を出たばかりの近藤の名を告げ、あるいは三塁手にまで起用した時、僕の脳裏にはしばしば甦ったのだ。近藤の打撃センスへの“期待度”の表れ。

     優勝への決め手として上田ファイターズが獲得した落合は、最初の年1997年こそさすがの打撃ぶりを見せたが、2年目のこのシーズンは年齢から来る衰えで、代打に回ることも多かった。そして、「ここは絶対、代打落合だろう」という場面で、しばしば「代打、小笠原」のコールがあって、僕の小笠原への思いはいっそう募っていったのだ。

    プロ野球史上トップを争う右の強打者・落合博満はこの年限りで引退している。

    一方の小笠原は、まだ100打席に満たない出場回数ではあったが、打率3割をマーク。
   さらに、同年、「ガッツ」という愛称が生まれた出来事も起っている。

    5月21日の西武戦(東京ドーム)、捕手として出場していた時、ファウルフライを追って飛び込んだ際に左手の人差し指を骨折し登録抹消。約1カ月半後に、再登録された最初の試合で代打ホーマーを放ったが、それは傷が完治しないまま指を伸ばして固定し、バットが十分には握れない状態で打ったものだった。これらの出来事により小笠原は以後、「ガッツ」と称されるようになったのだった。 

    ファイターズが「大失速」に陥っていた頃、夏の甲子園では松坂大輔(横浜高校)が、“平成の怪物”と呼ばれる大活躍を見せていた。
    
準々決勝で17回250球を完投、決勝ではノーヒットノーランまで成し遂げて見事優勝(春夏連覇)。

    その怪物が翌春、開幕早々東京ドームでプロ初先発し初勝利を挙げた試合では、ファイターズの3番・片岡篤史の大きな空振りの場面が映像としてよく知られているが、実はその試合で、松坂からファイターズが唯一奪った得点は、8回に2番・小笠原(一塁手)が打った2ラン・ホーマーだったことは、あまり知られていない。

(この試合では、田中幸雄が松坂投手から打った一塁側スタンドへのファウルが、僕の直ぐ目の前で弾んだのに、近くの人に捕られてしまったのが残念な記憶として残っている) 

    この年1999年、プロ3年目のガッツは、「バントをしない2番打者」としてブレーク、全135試合にフル出場して、打率.285、本塁打25本、打点83の成績で主力選手にのしあがった。

    以後の大活躍ぶりは周知のとおりだ。打撃部門でのさまざまなタイトルに加え、三塁手としてゴールデングラブ賞に輝いた年もある。捕手だった小笠原が結局は一塁や三塁に起用され大活躍した。

    とくに北海道移転3年目のシーズンとなった2006年、3月の第1回WBCで優勝に貢献して帰国した直後、開幕戦でのホームランをはじめ、本塁打王、打点王の2冠に輝き、一塁手部門でゴールデングラブ賞も得て、ファイターズ25年ぶり、北海道移転後初のリーグ優勝達成の原動力としてMVPも獲得したことは、北海道の人々の記憶にも新しいものだろう。 

 リーグ優勝を決めた、札幌ドームでのあの試合。

 0対0のまま迎えた9回裏の攻撃。ツーアウトで、走者は二塁に森本ひちょり、一塁に小笠原。ここで5番稲葉が放ったセンターへ抜けそうな深い内野ゴロを、ホークスの二塁手がギリギリ追いついて、捕球後すぐさま、セカンド・ベースに入った川崎(遊撃手)へ送球。フォースアウトならチェンジで延長戦突入だ。しかし、必死に走った一塁ランナー小笠原の足が一瞬早く、きわどくセーフ。その間に二塁走者ひちょりが一気にホームインして、劇的サヨナラ勝ちの、リーグ優勝!!

 6番打者だったSHINJOがネクストバッターズサークルから飛出してきて、ひちょりと抱き合った。マウンド上では膝を屈して泣き崩れ、立ち上がれない斉藤和巳投手。外国人選手2人に体を支えられて、ようやくベンチに引揚げていった。

 これらの光景を、長年不人気のパのマイナー球団と言われていたこのチームを愛し続けてきた僕は、札幌ドームのスタンド、ほぼホームベースに近い観客席で、奇跡を見るような、張り裂けそうな胸の中で走馬灯のように廻る歳月への想いと、夢心地の気持ちを抱いたまま眺めていた。 

    そして、そのオフ、栄光と人気の頂点で小笠原道大はFAでチームを去るのだが・・・。

 一方、近藤健介が主力野手への道を歩み始めたのは、プロ3年目の2014年だった。初めて開幕を一軍で迎え、さらに半レギュラーに。

    近藤の入団前からの正三塁手で4番も打ち打点王のタイトルを獲得したこともあった小谷野栄一が、この年、プレー中の大怪我で長期離脱。その穴を埋めたのが捕手登録ながら三塁を守った近藤だった。

    このシーズン、小谷野と近藤は三塁手としての出場数もほぼ半数ずつ、打者としての成績も同等だった(小谷野はシーズン後、FAでオリックスに)。

  翌2015年、近藤の打棒は完全に開花。3割3分近い打率で、パ打撃成績表の3位に初めて名を連ねた。

    開幕を7番・スタメン捕手で迎えるなど再び捕手に戻り(大野に次ぐ)59試合マスクをかぶったが、この年近藤が得たのは打撃を生かした指名打者の座だった(DHで70試合出場。二刀流大谷のDH出場=22試合=より多かった)。
    そして、シーズンが進むに従って、捕手としても指名打者としても中田翔の後を打つ5番打者に定着していった。 

 2016年、背番号も一桁の「8」に。出場の大半は外野手で、時にDH。大谷翔平の大活躍で日本一になった年だ。日本シリーズでは近藤も主に5番ライトとして勝利に貢献した。

 2017年、開幕は2番・ライト。この年の近藤の高打率ぶりは、ファイターズ・ファンなら誰もが記憶に留めているだろう。6月まで4割を維持、怪我による長期離脱のため規定打席数には及ばなかったが、復帰後も打ちまくり、打率4割超のままシーズンを終えた。

  高打率、選球眼が“代名詞”となった近藤は、以後、最高出塁率のタイトル2回やベストナイン、オールスター出場、五輪やWBSCプレミアムなどの国際大会代表・・・など、ファイターズを代表する選手となっていった。
    とくに大谷がメジャーに渡って以降、昨シーズンまでのチームの雌伏時代には、打撃陣ではチームを背負い孤軍奮闘する存在という感が強かった。

    ちょうど、小笠原道大が東京時代の1998「大失速」の年から北海道移転当初の時期まで、弱小低迷球団のなかで、ひとり、リーグ・球界を代表する存在であったのと全く同じように。

    そんな近藤選手、健介、コンちゃんが、FAでファイターズを去ってしまう。チーム9年ぶりの最下位のシーズンの果てに。

    小笠原選手も、前記のとおり、FAでファイターズを去った。チームが25年ぶりのリーグ優勝、(前身の東映フライヤーズ以来)44年ぶりの日本一に輝いた年のオフに。 

 小笠原の選択には、北海道のファンから「裏切り者」という声が多く発せられたものだ。移転してきて3年目、初めての最高な夢を見た直後だったからだろう。そう思うファンがいても仕方ない。

 でも、そんな時、僕には別の想いが湧いていた。
 ファンが選手に言うのはおかしいが、その時、僕は、本当にこう思っていた――「今まで優勝させてあげられなくて、ゴメン」と。

「日本一の年が、FAの年と重なってしまい、可哀想だな」という想い。

  その当時、僕は某掲示板に次のような文章を投稿した。
     
以下、保存してあったその全文を、やや長文ですが再掲してみたい。

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●小笠原選手の問題について、私の感じているところを記してみたいと思います。

●正直に言うと、今は思考停止状態です。来季(余談ですが、私は来期ではなく来季が正しいと思っています。来シーズンの略語だから。以前、パが1シーズン2期制を採っていたときの「キ」は前期・後期ですが。いきなり話が脱線しました)、来季、小笠原選手がGのユニフォーム姿でFとの試合に現れたとき、どんな感情が湧いてくるのか、そのときに自分の本当の気持ちが確かめられるのかなと思っています。 

●こんなことを言うのも、今はあまり小笠原選手を批判する気持ちが湧いてこないからです。残念で残念で仕方ないが、でも、今までご苦労さまという気持ちが強いのです。たぶん、北海道の多くの皆さんと違って、3年前からではなく10年前からの小笠原選手に対する思いがあるからだと思います。同時に、「腹黒い」だの「裏切り者」だのという人格攻撃的な非難の声を、この掲示板であまりにも多く見てしまったせいだと思います。

パレードの時にしろファンフェスにしろ、私はむしろ小笠原選手の胸中の苦しさに思いを馳せていました。やっと優勝した年が、もし、たまたまFAの年でなかったら……どんなによかったろう、と。心の底からパレードやファンフェスを楽しめる年に、小笠原選手に優勝を迎えさせてあげたかったなあ、と考えていました。

●自分はこのチームの熱烈なファンだ、だから、どんな文句でも選手につける資格がある……とは、私は思っていません。ましてや、人間性に関する、推測憶測に基づく非難・攻撃は。

●25年前の優勝の前年、Fはあと半勝で優勝を逃がしました(最終試合、あと1点取って同点に追いつき引き分ければ後期優勝)。そのオフ、Fは来季優勝するためには抑えの切り札が必要だと、当時優勝請け負い人と呼ばれていた球界のリリーフエース江夏豊(広島)の獲得に乗り出しました。このとき、交換相手として長年Fのエースだった高橋直樹投手を要求され、断腸の思いで放出してしまったのです。そのとき私は、「高橋のいないチームで優勝して何の意味があるんだ!」と思いました。でも、翌年、優勝してみれば、本当に嬉しくて仕方ありませんでした。

さらに、その翌年、前期優勝の西武と後期優勝のFとのプレーオフで、第1戦、西武の先発は高橋直樹投手(広島から西武にトレードされていた)。

一方、この試合のFの先発は、登板は絶対ありえないはずだった、あの右手指骨折の工藤幹夫。(シーズン末に怪我しプレーオフには到底間に合わないとされていたエース工藤投手。回復が意外に早かったのを大沢監督が外部に徹底的に隠し、秘かに秘密練習をさせていた。登板当日も包帯姿でカムフラージュのサプライズ先発だった)。

その工藤VS高橋。このときは、もう高橋投手は単に倒すべき相手チームの先発投手、という感覚でした。

●時間の流れ……と言えばいいのでしょうか。

 野球は時間の長いスポーツです。私は野球は長編小説だと思っています。たとえばサヨナラ勝ちした試合でも、最後のサヨナラ安打のシーンだけ観ても、100%の喜びは得られません。20数個のアウトというガッカリ、3者凡退という退屈な時間、大ピンチからの脱出……さまざまな出来事を見つめ続けてきた果てに飛び出したサヨナラ安打だからこそ、心の底から嬉しさがこみ上げてくるのだと思います。

 これは1試合単位の話ですが、1シーズンでも同じだと思います。

今季の金村投手の暴言事件(シーズン大詰め、先発した金村は5年連続2桁勝利目前で満塁のピンチを迎え、4回2/3で交代させられた。そのためヒルマン監督を激しく批判。その結果、登録抹消、プレーオフも登板停止の処分に。しかし、日本シリーズ第4戦に涙の先発で勝利投手となり日本一に貢献)も、終わってみれば、全てが日本一というドラマに向かうためのヒトコマだったと思えるように、山あり谷ありの果てに手にした優勝だからこそ、喜びも倍増したのではないでしょうか。

 そして、これはチーム自体の歴史についても同じだと思うのです。

小笠原選手のことも、きっと、いつか、次に思い切りバンザイするための、懐かしい思い出になっているにちがいありません。

●私はGの傲慢な姿勢が日本の球界を歪めてきたという考えの持ち主です。だから、Gを応援することはありえません。

 私はFファンとして、かつて全盛期の田中幸雄選手や西崎投手、古くは古屋選手や島田誠選手を応援しながら、こんなに素晴らしい選手がいるのに、世間的にはほとんど注目されないことを非常に残念に思っていました。だから、相手チームの好選手(野茂やイチローや伊良部や松坂ら)も日本にいた当初から正当に評価して、さらにはセの好選手も讃えてきました。なぜなら、Fファンであると同時に、野球そのもののファンだからです。Gファンの多くが、Gの1軍半程度の選手には大騒ぎしながら、野茂もイチローも斉藤和己も、TVでさえまともに見たことがないまま、日本のプロ野球というものを語っている姿に、日本球界の歪みを痛感していました。

 そんなファンと同じにはなりたくないと思っています。

 来季、小笠原選手を観たとき、どんな感情が湧くか分かりませんが、この好選手に対して、少なくともブーイングをするつもりはありません。

●勝手なことを長々と書きましたが、これが私の気持ちです。

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 近藤選手、タンス君、コンちゃんとの訣かれも、きっと、またいつか新しいバンザイと拍手をするための、長い歴史のなかのヒトコマなのでしょう。

    近藤選手への今の僕の気持ちは、どこか小笠原選手のFAに抱いたそれと近いと言えそうです。 

 近藤健介と小笠原道大。この2人がファイターズでの時間を共に過ごしたのは、2020年~2021年の2シーズンだった。

 栗山監督のもと、小笠原がヘッドコーチ兼バッティングコーチとして招聘され、14年ぶりに古巣に戻ってきた。しかし、2021年、シーズン終了後、稲葉篤紀氏が新GMに就任し、さらに、新監督には新庄剛志が就任するのではという情報が広がり始めたなかで、小笠原コーチは任期満了をもって退団と発表された。

 2年間という短い時間の中で、小笠原道大と近藤健介、チームを背負った2人の左バッターの間に、打撃に関してどんな会話があったのか、興味は尽きない。 

昨シーズン後、コンちゃんがFA行使を宣言した10月、僕は次のようにツイートした。
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2022年10月18日(火)    YATUーFーKOMA @YATUKOMA
   #lovefighters 近藤健介 FA行使へ

    行使宣言しても、宣言残留もありうる。
    ぜひ残って欲しい。でも、FA権は、プロ入り時にドラフト制度により選手本人の自由意志が制限されていることの見返り、選手の権利として生まれたものだし、選手自身の人生の選択だから、結論は尊重しなれば・・・。
https://twitter.com/SnFighters/status/1582122819651244033…

posted at 15:20:49
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チームを代表する選手となった近藤選手会長は、まだFA移籍を決断する前の昨年9月28日、翌年から本拠地を移すため最終戦となった札幌ドームで、試合後、挨拶に立ち、こう語った。

「エスコンフィールド北海道で新たな歴史をつくるのは、ここにいる選手一人ひとりです」と。
 3番レフト健介が、その試合で打った初回の2ラン。それは、結局、チームとファンへの惜別の一打となった。 

 その挨拶をTVで観ながら、東京時代からのファンの一人である僕は、北海道移転の前年2003年の東京ドーム最終戦のことを思い出していた。奇しくも同じ9月28日だった。

 5万人の観衆が集り、オーロラビジョンに映し出された「ありがとう 東京」の文字。3番サード小笠原道大(この年、2年連続の首位打者)が1回裏の打席に立った時には、彼のメッセージが映し出された。それは、一塁側スタンドに居た僕のカメラに今も残っている。
「ファイターズは どこに行ってもファイターズです。これからも応援してください 2/小笠原道大」

    そして僕は、小笠原道大が最後の打席で打った、レフトへの二塁打を忘れないだろう。
    そしてまた、ライトスタンドへの近藤健介の最後のホームランも。 

                 2023.1.8 記

 

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