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イエスが十字架で殺された日に〜夜明けに信頼して

今日は受苦日の礼拝でした。
そちらでお話しした元になる文書がこちらです。聖書の箇所は、ルカによる福音書23章47節から56節です。

百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

ルカによる福音書23章47ー56節 『聖書 新共同訳』 日本聖書協会

見た人たち

この出来事と言われているのはどの出来事のことなのでしょうか。先ほど読んだイエスの7つの言葉は、イエスが十字架につけられている時に語ったとされている言葉です。この出来事というのは、この7つの言葉の出来事です。この出来事への反応について、つまりイエスの十字架死に対する反応がルカには記されています。
百人隊長が神を賛美するとは、なんと大それたことかと思います。イエスの十字架のそばにいた百人隊長です。イエス逮捕以降の裁判、そして拷問、さらには二人の犯罪人の処刑、この一連の出来事を至近距離で見、実行する側の一人であると思われます。その人物が、この期に及び、神を賛美することになるとは虫のよい話とも思えます
見物に集まっていた人々はどうでしょうか。この出来事を通して胸を打ちながら帰っていきました。胸を打つのは悲しみの表現だったそうです。そんなに悲しむのであれば、どうして十字架につけられるイエスをそのままにしてしまったのでしょうか。あるいは旅するイエスが各地で行ったさまざまなしるしを思い出しイエスならば、きっとどうにかなる、何かが起こるかもしれないという期待を持っていたのかもしれません。しかし、その期待は裏切られてしまいました。ローマの十字架、ユダヤの神殿制度、祭司制度、律法主義的な権力にイエスは期待通りの抗い方はしなかったのです。期待が外れた思いを抱かされやっぱりダメだったのだと思っていたかもしれません。
イエスと共に旅した女性たちは、遠くからこの出来事を見ていました。男弟子たちはいなくなってしまいました。彼女たちはこの出来事を見ました。百人隊長の賛美も、そして人々が胸を打つのも、彼女たちは見ていました。彼女たちの心情については想像するほかありません。こうして、イエスの十字架は「見られていた」と何度も記されていることが心に突き刺さります。
見ている人は多いのです。それぞれにそれなりに反応し、心震わせているのです。見ることはできるのです。しかしそこから先はとても難しいのです。

2023年の受苦日にこの聖書の箇所を何度も読み返すと、本当に「その先」の難しさを痛感させられます。

この記念の日に

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