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ぼくが聖書を好きな理由

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キリスト教の礼拝でするお話の原稿はこちらにまとめています。そんなに「新しい」とは自負していませんが、「正統派」に疲れた方々に届けたい聖書のまた一味違った魅力を書いています。
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記事一覧

自分で自分のパンを食べても意味がない

自分で自分のパンを食べても意味がない

 キリスト教会って何をするところ?という質問にはいろんな答えが返ってきそうです。神を礼拝するところ、神を賛美する、祈る、聖書を読む、人と会う、話を聞く、話をする、ささげものをするというのが考えられるでしょうか。教会では、聖書の勉強をする人もいますし、歌を練習する人もいます。あるいは誰かと話すことを楽しみにする人もいますし、逆に誰からも話しかけられないで一人でひっそりとしたいと願っている人もいます。

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キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

さて、前半で述べたイザヤの時代のことばは数百年のちにどのように受け継がれていったのかを考えていきたいと思うのです。それはやっぱり絵に描いた餅だったのでしょうか。
 また最後の部分は教会ではお話ししていない加筆部分です。

平和の預言はイエスによっても受け継がれました。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39

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返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

コリントにはローマの解放奴隷たちが多く移住していたようです。コリンとは、南ギリシャ州の大都市でローマの繁栄を象徴するような都市とも言われています。ローマの市民権を持つ人びと、ユダヤの民、ギリシャ人が共生するところでした。その共生の様子は残された史料から想像するほかありません。少なくともキリスト教共同体では、ユダヤの人々とギリシャ人との間には超えられない壁があったことがわかっています。パウロは、その

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誰々つながりがなくても〜コリントの信徒への手紙一1章から

誰々つながりがなくても〜コリントの信徒への手紙一1章から

 宗教団体が決して「怪しい」ものではないことを証明するにはどうすればいいでしょうか。「何ら害がない」ということを伝えるには、すでにこの世で承認されているものと同じであるという他ないのかもしれません。
 キリスト教会が発行する「自己紹介」で、この教会は〇〇学校と同じ団体に属しています、というのを見て、ああ、こう書けばすでに実績のある団体の関係団体だから大丈夫と思われるということか、と思いました。親し

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緊張の所属(その2)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

緊張の所属(その2)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

前回の続きです。
「汚れないで過越の食事をするため」この言葉から読み取れる諸々を考えてきました。

つまりピラトの家になど入ったら自分たちは汚れてしまうということが暗に言われているのです。でもそれが

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緊張の所属(その1)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

緊張の所属(その1)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

 「汚れないで過越の食事をするため」という一言が飛び抜けて響きます。イエスを逮捕した人々は、イエスを大祭司のところからローマの総督官ピラトの元へと連行しました。

聖書の箇所はヨハネによる福音書18章28ー38節です。

人々が誰なのかはヨハネ18章の12節に詳しく書かれています。「兵士と千人隊長、ユダヤ人の下役たち」とあります。何とも複雑な人間関係が

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字句通りに抗って

字句通りに抗って

多くの罪責が女に課せられてきた「歴史」に根ざさない聖書解釈は虚だと思います。最初に野の生き物のうちで、

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はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

さて、前回はヨハネ9章を読むその前段階として、ファリサイ派のことについて述べました。今度は、このシーンでのイエスと弟子たちの様子から考えてみます。弟子たちは目が見えない人が見えないことを罪のせいだというのです。それは

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同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

今回のお話は、さてはて、どう言っていいのやら、と頭を抱えます。

イエス様がエルサレムにいた時の話です。エルサレムには神殿で働く祭司たちや律法を厳格に守ろうとしているファリサイ派の人々がいました。この話では祭司たちやファリサイ派の人々が、一人の目が見えなかった人を巡ってイエスを訴えようとすることを伝えています。物語は一人の人を取り巻いて、いわば出汁にして、イエス様に何か罪があったことにしよう、いわ

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カーブが強い聖書の読み

カーブが強い聖書の読み

正直、心臓の音が大きくなるぐらい、寝られない〜日々でした。
忙しいでした。
その理由の一つは

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いのちの水とキリスト教(4・完結)

いのちの水とキリスト教(4・完結)

今回が4つに分けていたお話の最終です。ヨハネによる福音書4章前半をどちらかというと「教会論」的にお話ししてきました。教会ってどういうところなんだろう?それを問うことは自分の頭の中で〜あるべき〜なことを超えていく一つの霊的な活動だと思うのです。大体の教会論は逆に自分の頭の中にあるべきことを形成していく形で紡がれてきたことへの逆ベクトルですね。

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いのちの水とキリスト教(3)

いのちの水とキリスト教(3)

シリーズ3回目。
ウィンドウショッピングはお好きですか?
いわゆる商業地区を歩いていくと圧倒されることがあるのです。シュッとしたマネキンが着ている華やかな洋服や、ショーウィンドーに並んだ何を入れたらいいのかわからないほどのバッグ、数百万もするアクセサリーや時計が並んでいます。飲食店が立ち並ぶ街を歩くとぎゅうぎゅうに詰め込まれたように色とりどりのポスターでお得セットが売り出され、中には待ち時間90分

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いのちの水とキリスト教(2)

いのちの水とキリスト教(2)

さて、前回の続きです。

キリスト教は、今日の聖書の箇所のように幾重にも折り重なりがあり、正直「なんなん?」と言いたくなる、

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いのちの水とキリスト教(1)

いのちの水とキリスト教(1)

 教会に行ったらいい話が聞けて、しかもそれがわかりやすくてストンと落ちるとやっぱり教会に来てよかったと思う人が多いそうです。確かに、わざわざ日曜日の朝に出かけて行ったのに、何やら不思議しか残らないとか、自分が思っていたのとは違うとモヤモヤがおさまらないので、損した気持ちになるのは良くわかります。それを察知した説教者も教会に来続けている人も、できるだけ、わかりやすくしようと言うのがトレンドなのかもし

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