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友の声に癒される[2024年1月9日]

毎日のように友人と長電話をしていたのは、いくつの頃までだったか。気がつけば、電話を何日も使わない生活が当たり前になってしまった。

私は能登半島地震の被災地域に親しい地縁・血縁の人はいないけれど、倒壊した家屋や津波の爪痕、避難所の様子をニュースで見ているのは、やはりつらい。東日本大震災から12年経ち、当時の記憶はだいぶ落ち着いたと思っていたけれど、映像に刺激され、心がかき乱される自分がいる。

あの頃の記憶は時系列がぐちゃぐちゃに乱れている。私自身は東京にいて、両親や親戚は仙台の自宅で避難生活を送っていた。海から遠く、地盤も硬い地域だったので、よほど大きい余震がなければ、さらなる命の危険性はなかった。ただ、電気は復旧したものの、ガソリン不足と水道の不通が続き、1カ月弱、不自由な生活を強いられていた。友人たちも似たような状況だった。Twitterのログを引っ張り出せば、当時、自分がどう過ごしていたかわかるのだけど、いまだに一度も読み返したことはない。

能登半島地震の発生以来、私と同じように、過去に自分が巻き込まれた災害を思い出して、心が揺れている人は多いのではないだろうか。そのなかには、東日本大震災だけでなく、北海道や熊本などの地震で被災した地域の人たち、台風などの水害で被害を受けた人たちもいると思う。直接、被害を受けていなくても、家族や友人の姿に心を痛めた人もいるだろう。

今、この瞬間も避難生活に耐えている能登半島の方たちに比べれば、温かい部屋で電気も水道も通じ、食べ物にも不自由していない私の心のさざ波は、取るに足らない感情だ。明日も平穏に過ごせるはずなのだから、自分に課せられた仕事や予定をこなせばいい。それが経済や平和な日常を回すことになり、被災地をいずれ支える力にもなる、と思っていても、足元が揺らぐような不安感は拭えない。

そんな思いをしつつ、夜に親友と久しぶりに電話で話をした。高校時代からの友人なので、東日本大震災のときも、同じような思いを経験している。当時の思い出を話したり、お互いに抱えている介護の悩み、仕事の愚痴をだらだらと話していたら、肩の力がすっと抜け、気持ちが軽くなった。

もし私と同じように、被災の当事者ではないけれど、なんとなく不安という人は、電話で親しい人と話をしてみたらどうだろう。メールやLINEで文章をやりとりするより、心が落ち着くと思う。

文章を読むのと、人の声をリアルタイムで聞くのでは大きく違う。人の声には癒しの力がある。そんな当たり前のことを思い出した友との電話だった。



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3行日記

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。