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映画『わたしは最悪。』、わたし達の物語。


『わたしは最悪。』は、自分らしさや多様性が叫ばれるなか、最も均一的で他人に不寛容な時代を生きる、わたし達自身の物語なのかもしれない。


自分探しや世代、ジェンダー間の確執は以前から存在してきたと思うけれど、本作ほど多くのモチーフを巧みにまとめ、普遍的な物語として実に知的に、そして感傷的に語る作品にこれまでわたしは出会ったことがなかった。


映画冒頭のシークエンスからもう見事で一気に物語に引き込まれてしまった。ユリヤは生きたいように自由に生きている。そう思えた。結婚や妊娠などのライフイベントがカチカチとタイムカウントをするなか、ユリヤは欠落感や焦燥感を抱くひとりの女性であると分かる。

彼女だけではない。
日々膨大な情報を処理し、何を買うにしても、生産過程で非人道的な搾取はないかに目を配り、アイヴィンのように地球環境にも目を向け、情報発信にもポリコレを意識する。

その上、やりたいことをやれ、本当の自分とは?自分らしく。多くのささやきがノイズのように否応なしに聞こえてくる。

わたしは表向きは善良な一市民の顔をして時代の変化を支持している。しかしその内心は日々目まぐるしく変わっていく社会にちょっとばかりうんざりもしているのだ。そう思うのはわたしだけではないだろう。誰しも何かしらのカオスを内に秘めて生きているに違いない。  

だからだろうか?
抑圧された感情が映画中盤に突如解放された瞬間、なんとも言えない感覚に陥った。興奮と共感で何故だか笑いが込みあげてしまった。それはユリヤがマジックマッシュルームで幻覚を見るシーンだ。アニメーションや特殊メイクを駆使し、老化や妊娠、出産、ジェンダー、世代間ギャップなどのモチーフを文字通り身にまとったユリヤはまるでモンスターで、感情を一気に爆発させた彼女はまさにわたしの分身だった。


オスロの美しい街並みを背に好きな人のもとへ向かうユリヤ。自分と彼以外が静止した世界を颯爽と走り抜ける姿、街を眺め涙するその横顔を実に美しくフィルムに焼き付けたヨアキム・トリアー監督の手腕は疑いようがない。

全部、時代のせい。
と言いたくなるほどにその流れは速い。だから恋も幸せも長くは続かないのかも知れない。どれだけ時を止められたらいいことか。しかし壊れやすい儚いものだからこそ、その一瞬の輝きがまた格別に美しい。

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