言語化すると取りこぼされる思考について

 またゆる言語ラジオを見るようになって「あーやっぱりこの2人は私が求めてる話をしてくれる!」と、私は子供のように喜んでいた。ビジュアルシンカーの話になって「我々は言語化ヤクザだからなんでもかんでも言語化してしまうが、視覚で思考する人がいるのだと知ると、彼らの視覚的思考から得られる視点というのは我々が思考を言語に起こす過程で失われてしまうのではないか」といった旨の発言を堀本さんがしていた。
 当時の私は甚く共感したので、ここはひとつ思考を言語にも映像にもせず脳内でぼんやりと保持しておこうと思いついた。これで思考の取りこぼしがなくなるのではないかという浅知恵である。それで、私の思考がぽわぽわと浮かんでくる時間というのは風呂の時間なので、シャワーを浴びながらぼんやりと思考を脳内に揺蕩うままにしてみた。だがすぐにこれは危険だと悟った。思考というのは何らかの形に起こさなければ雲散霧消してしまうと気づいたのである。今回はそういう話になる。

 言語というのは情報のひとつの極端な形である。これはゆる言語ラジオの水野さんの発言であるが、まるで私の言葉のように思えるほど強烈に共感したので、これを私の主張として使うことにする。そう、言葉とは極端な形なのだ。そして情報を極端な形に変換すれば、その過程で失われるものがあっても不思議ではない。つまるところ言語化とは、脳内の生データを言葉という記号に置き換えて出力することであり、これは情報の伝達効率においてとてつもないアドバンテージを持つ。しかし正確さを犠牲にしてしまうのだ。まるで不可逆圧縮のように。
 では言語が情報の極端な形であるのなら、情報の自然な形とは何なのだろうか。持論ではあるが、軽くハッキリさせておこう。それは五感で感じるままの形である。見たもの、嗅いだもの、聞いたもの、触ったもの、そして味わったもの、そういった五感のありのままの感覚が(生物に限っていえば)最も自然な情報の形である。と、私は思う。あくまでも持論であるので、真に受けてはいけない。ただ、私はこれを前提に話を進めるという断りを入れたいのだ。

 おそらく言語化によって失われる情報というのは、この五感から削り落とされた情報なのである。取りこぼしのないように言っておくが、ここでは数式は管轄下におかない。それらは言語が根幹となった情報だからである。もっと突き詰めれば、論理も言語そのものであるので、これもまた言語化によって失われるものはない。重要なのは、感覚的な情報を言語に落とし込むと不可逆圧縮が起こるという点である。
 では自然な情報の形が一番偉大なのかと言えば、そうではない。自然な情報というのは、自然であるがゆえに体に溶け込んでしまって、具体的な形を失ってしまうのだ。五感で得た感覚的な喜び、悲しみ、感動、疑問、そういったものはある程度極端な形に変換しなければ、失われることはなくとも認識しづらくなってしまう。
 XやYoutubeなんかで、誰かが言語化してくれた感情を自分のものとして内面化する行為をよく見かけるが、これもまた、体に溶け込んでしまった自然な情報を掘り起こして言語として再構築する行為なのではないだろうか。そのとき自分が本当に感じていた感情というのは歪んだり削り落とされたりしてしまうかもしれないが、そうしなければ形を持たないまま忘れ去られてしまうかもしれないのだ。「自分で言語化しろよ」という発言も見かけたが、私はこれに真っ向から対立する。

 ともあれ、私が言いたいのは、言語化すると思考の一部が取りこぼされるのではないかといった言説に怖気づかず、思考を何らかの形にすることに誇りをもって、躊躇せず挑んでほしいということである。これは私自身を鼓舞するためにも言っている。形にすれば取りこぼし、形にしなければ雲散霧消する。ならば、多少変形しても形にして残しておくべきではないだろうか。

 取りこぼした部分は未来の自分が拾えばいい。拾う間もなく消えるくらいなら。

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