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いつか滅ぼす身のために【小説】③―1

Ⅱ.ゆめうつつ

―前編―

 目覚める、と思った。

 不意に、風が頬を滑っていくのが分かる。そして柔らかく頭を撫でるように通り過ぎると、少し碧みを含んだこの時節らしい穏やかな風だと気付く。

 『····ちゃ······ちゃん·······』

 暖かいような、冷えるような、混ざり合わないマーブル様の陽だまり。少しドキドキするのは、何かが始まる予感なのかもしれない。

 ………でも…どうして

 『··えちゃん·······』

 ····誰だろう······。誰かを呼んでる声が聞こえる。

 やえちゃん···!

 「!!」
 「おはよ!やえちゃん!」

 鷹揚な意識が世界とリンクした瞬間、眩むほどの煌めきを持って、何もかもが鮮明に映り込んでくる。声の主は、清楚の概念を具現化したような乙女だった。

 「……だ、れ…?」

 私に向けられた、清らかで屈託のない笑顔。
起きたばかりの回らない頭は混乱するばかりで、正体を問うたのが自分の掠れた声だと気付くのに、数秒かかった。

 「アタシ、よしのって言うの。やえちゃんがおきるの、ずっと待ってたんだぁ」
 「…よし、の……」

 やえちゃん、とは私のことらしい。起きたばかりで聞き覚えが無いからか、どうにもピンとこない。

 「わたし、たぶんやえって名前じゃ…」
 「アタシもね、本当の自分の名前がわかんないだ。でも、みんながよしのって呼んでくれるから、よしのも良いかな?って」
 「…わたしは、やえって呼ばれてるの?」
 「うん!だからアタシも、やえちゃんって呼びたくて」

 そんなものか、と思う。
結局、その名前が誰を指すのかさえ分かれば問題ないのだろう。それなら私を指す言葉が【やえ】でいいのだろうし、彼女も【よしの】でいいのだ。

 「……わたしも」
 「?」
 「わたしも…よしのって、呼んでも……いいかな…?」
 「うん、もちろん!うれしいよ、やえちゃん!ありがとう!」

 彼女の満面の笑みに釣られて頬が緩む。私はきっとこの先、この時の笑顔を忘れないだろうなと思った。

 「ふぁぁ~…ぁ………っ、はぁ~…」
 「あ、かいどーさん!おはよ!」
 「んぅぅ?…あぁ、よしのか。おはよう」

 私たちのすぐそばから太い欠伸が聞こえてきた。どうやら彼女の知り合いのようで、かいどーと言うらしい。陽が明るいのかまだ眠いのか、しきりに目を瞬かせている。

 ゆったりとした雰囲気と穏やかな喋り口は、初対面の私にとってささやかな安らぎを与えてくれた。

 「かいどーさん、あのね!やえちゃんも起きたんだよ!」
 「そうかぁ。よかったな。ずっと待ってたもんなぁ」
 「うん!」

 さらさらと流れていく風が心地よい。
 どうしてみんな、私たちの前に立ち止まって『綺麗だね』と声をかけてくれるんだろうと考えていたら、よしのと視線が絡んだ。

 「………?どうしたの?」
 「んー?いいなぁと思って」
 「いいなぁって、なにが?」
 「やえちゃん、目はな立ちがはっきりしてるから、とってもはえるなぁって」
 「わたし、そんなに目立つ?」

 目立つというか…と、ひねりながら顔を覗き込んでくる。

 「とってもびじんさん!」
 「ははははははっ」

 鳩が豆鉄砲を食らった顔してるぞと、かいどーさんが笑う。私は私で、美人と言われたことにビックリしてしまった。

 「わたしより、よしのの方がびじんさんでしょ?」
 「え?なんで?」

 きょとん、という擬音がこんなに似合うだろうかというくらい、よしのの顔はキョトンとしていた。かいどーさんは相変わらず、可笑しみが引かないのか豪快に笑っている。

 「だって、みんなよしのを褒めてるよ。綺麗だって」
 「そうかなぁ~」

 訝しげなよしのは、それでも私の方が美人だと言うことで落ち着いたのか、いやいや、うんうんと独りごちて微笑んだ。

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