ウトロ地区〜在日徒然
ウトロという言葉は北海道に住んでいた人間からすると実に馴染み深い。今年4月に発生した知床遊覧船事故。事故現場は知床半島沖。同半島には斜里町ウトロという地名があるのだ。繰り返し報道されたため印象深いが、今回訪れたのは北海道ではなく京都の「ウトロ」だ。
京都宇治にある在日コリアンが多く住むウトロ地区。その始まりは太平洋戦争中に遡り、京都飛行場の建設工事が行われた際に駆り出された朝鮮人労働者達が集まって出来た集落だ。
戦後国内に居た多くの朝鮮人労働者は朝鮮半島に帰ったが、ウトロ地区に住んでいた人々は何の支援も受けることなくウトロ地区に取り残され、今に至る。
記念館での学び
最初にウトロ記念館を訪れ、立ち退きを迫られた逆境でも最後まで諦めず、理不尽と戦い続けてきた在日コリアンの方々の不屈の精神を学んだ。2階にあった企画展示にはウトロ地区の歴史と文化、生活について詳細に見ることが出来る。
ガイドでウトロ在日3世のキム・スハンさんに目玉である在日1世の姜君子さんが家で訪問客を出迎えるジオラマを紹介して貰った。彼女が住んでいた当時の家の中をそのまま再現した光景。訪問者とテーブルを囲み、自身はカップ焼酎を片手に小魚を肴にしていた。ジオラマだけでもウトロ地区の温かみを感じた。
3階には実際に1世の方々がどんな人だったのか。どの様な人生の歴史を歩んできたのかが克明に展示されていた。全員が全員同じウトロ地区に住みながら別々の人生を歩んでいた。しかし、心の奥底でウトロの人々が繋がっていたからこそ耐え続けることが出来たのだと実感した。
フィールドワーク
記念館を見学後実際にガイドの方と一緒にウトロ地区を順に回った。地区西部には3人ほどの在日コリアンの方々が今も暮らし続けていた。研修と言っても、あくまで暮らしの一部を拝見させてもらっているのだと感じた。
暗闇には整備された地区の大部分が存在した巨大な空き地と宇治市が作った市営のマンションがそびえ立つ。地区は高齢化が急速に進んでいる。
マンション暮らしとなった今は昔の様な隣近所のコミュニケーションが少なくなり、新型コロナウイルス感染拡大も相まって心の距離が開きつつあるという。
対策として最近ではウトロ地区のコミュニティーを守るために記念館もクラブを開いたり、集まりを開催したりするとガイドのハンさんは話していた。
ウトロの存在を後世の人にも知ってもらうために。自分達が生きていた証を残すために。次世代への継承の取り組みを続けていた。
空き地にならずまだ昭和の面影を残す西部には、ウトロ放火の被害に遭った実際の住居跡が残っている。放火から数年経っても焼け焦げた木造の柱が無造作に倒れていた。
ウトロ放火事件
ウトロ放火事件。衝撃的な事件で、当時の報道を見ていて背筋が震えた記憶がある。差別や偏見、ネットヘイトの現実化。全てが現代社会といわれなき憎悪に端を発している理不尽なものだ。
実際に目にしてみると、とても心が痛んだ。どうしてネットを見ただけで会ったこともない人を傷つけようと思ったのか。何故実際に会って話も聞かずに(容疑者が)攻撃に走ってしまったのか。
「立て看板を燃やす目的だったが、予想以上に燃え広がってしまった」のだと犯人は供述していたが、いずれにしても相手を命の危険に晒す行為という事実には変わりなく、決して許されない。
日が完全に沈み闇に包まれた火災跡地からは、どこか物悲しさを感じた。
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