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インド独立記念日と終戦記念日の討論~国を考える~


 
8月15日はインドの独立記念日であり日本の終戦記念日ということで普段はカレンダーに左右されて行動を決めることに嫌気がさして自分の動きとしてはよしてしまったのだが、社会はそうは動かない。
 
その中であるインドのNGOの方とMTG後に30分ほど語り合った。
 
互いの共通見解は「国」というものは人類が地球上に線を引いて権力者の都合のよい形にしてきただけのもの。
同時にそれは多くの人間生活にとって当たり前の所与のもののように捉えられている。
様々な経済指標しかり、戦争しかり、法律しかり、条約しかり、国籍しかり、ワールドカップ、オリンピック等のスポーツイベント、反日、反韓などの言葉やインド文化・日本文化という言葉さえあり、国を前提とした人間の営みは至るところに見られる。
 
独立記念日はただの祝日でお祝いしてはしゃぐ日というだけではない。
そこには血なまぐさい歴史のにおいがし、戦いの香りがし、線引きをしたことによる数多の対立構造の影を忍ばせている。
 
国威掲揚
 
どうも美しくも危ういこの言葉を使う時には当然他国の存在が前提となっている。
その他国の存在というものの中に、対立という要素が多分に含まれる。
 
国という単位があるから国単位の対立が生じ、国防の必要性が生じ、防衛予算の必要が生じる。
私とNGOの方はそんな金あるならまともな教育に回せとなかなかこれも身勝手な怒りを朝っぱらからぶちまけていた。
 
 
流行っているマンガ、キングダムも、実は分からないが中華を統一することが目標であった頃が舞台であり、権力欲の様なものもあるのだろうが、戦乱の世を終わらすという側面もあっただろう。
それは日本の戦国時代から今に至るまでの流れも近しいものがあるのだろう。
 
コスモポリタニズムというとめんどくさく聞こえるかもしれないが、単純に
 
「同じ時間、同じ空のもと同じヒトとして産まれた存在がいるだけの世の中」
 
という価値観を「前提」として生きることはこうも社会というものから外れた考えなのだろうかと思いあぐねる。
 
そんなことを考えながら活動をし、仕事をし、外部環境が原因で努力できない人をゼロにするために身体と頭を動かすいつものありふれた日常。
 
国家の話と政府の話を混同する場面も見受けられるが、私は決して無政府主義ではない。
むしろ政府は強固であってよいと思うし、私はどちらかというとおかしな方でプラトンの哲人思想にあこがれさえ抱いている。私も哲人に統治されたい。
 
 

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