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弱さを見せること、素直な自分を見せること、それは時として、人から誤解を受けたり軽んじられやすい

皆さん、こんにちは☀
父の入院のことでは、多くの方にご心配を頂き、ありがとうございます。
おかげさまで、今は順調に治療とリハビリに専念しているようです。
私の持病の検査結果も、増薬や入院に至らず、現状維持となりました。
そういった安堵感からか、私は再び、思考の迷路にハマっています。
というか、ずっと解決しない、人生の課題に、再び戻ったという感じでしょうか?

簡単に言ってしまえば、タイトルに書いたようなことだ。

私は自分の弱さを人に見せることに抵抗がない。
(むしろ、見せることで、自分以外の誰かに共有してもらい、慰めを頂いている)
私は良くも悪くもそのままの自分を人に見せがちである。
(良くも悪くも、人間的に幼さがあるからだと思われる)

これを、私の長所と思って下さる方がいらっしゃるおかげで、私は自分の肯定要素を以前よりも増すことができた。
しかしながら、もちろん、これを私の短所、またはあまり好きでない性質と思われる方も、少なからずいらっしゃるわけで、その場合、大抵は、私自身を誤解したり、少しばかり小ばかにした態度を取られてしまうこともある。

なぜ、このようなことになるのか?
私は、大人の自分で自分を守る感覚が欠如しているからだ。
大人になると、人は良い意味で、自分を守る知恵を持つ。
それを、自立と言い、社会性と言うのではないかと思う。
自分を守る、それは、良い意味で、自分を演出することだ。
大人としての理性ある振る舞い、大人としてのジョークにも気軽に対応できる振る舞い、ある意味、大人としての常識とフットワークの軽さ、バランス感覚である。

とまあ、ここまで説明してきたが、これはあくまでも私見であるので、ご容赦願いたい。

おそらく、私に苦手意識を持つ人は、私に思考的重さを感じているのではないかと思う。
おそらく、私を小ばかにしてしまう人は、私に思考的自信のなさを感じているのではないかと思う。

そこらへんが、私が人から誤解を受けたり軽んじられやすい原因なのではないかと、感じている。
問題なのは、そんな自分を、変える必要性がどこまであるかだ。
自分を変える、これは簡単なことではない。
まずは変えたい自分像を知る必要性があるだろう。
反面、変えたくない自分像を知る必要性もあるだろう。
自分を変えるとは、言い換えれば、自分を知る、なりたい自分を想像する、なりたい自分、なりたくない自分を、把握することにあるのではないかと感じるのだ。




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