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映画の外側 『ウエストサイド物語』(1961)


キャスト

監督
ロバート・ワイズ
ジェローム・ロビンズ

脚本
アーネスト・レーマン

原作
ジェローム・ロビンズ
アーサー・ローレンツ

製作総指揮
ウォルター・ミリッシュ
(クレジットなし)『荒野の七人』
『ウエスト・サイド物語』
『大脱走』

出演者
ナタリー・ウッド
リチャード・ベイマー
ジョージ・チャキリス
リタ・モレノ
ラス・タンブリン

音楽
レナード・バーンスタイン(作曲)
スティーヴン・ソンドハイム(作詞)

あらすじ

ニューヨークのダウンタウン「ウエスト・サイド」は移民の多い街だった。
そして、そんな街のある通りでは、2つのグループが自分たちの「シマ」を巡って日々構想を続けていた。
目下、対立関係にあったのは、リフをリーダーとするヨーロッパ系移民のジェット団とベルナルドが率いるプエルトリコ移民のシャーク団である。
ある日、ジェット団のリーダーであるリフは、決着をつけるべく「決闘」を実施することを決断し、元リーダーでもあるトニーにも声をかけ、シャーク団のメンバーたちも大勢揃うダンスパーティーに出向く。
一方で、シャーク団もその日、ダンスパーティーに1人の新顔を伴って現れる。
それが、シャーク団のリーダーであるベルナルドの妹、マリアだった。
ダンスパーティーでも、バチバチと火花を散らし、ダンスで競い合う2つの組織だったが、そんなフロアの中央で、マリアはトニーに心を奪われてしまう。
しかし、対立する2つの組織を超えた恋であり、許されない恋だったのだ…。

制作にあたって


1957年のニューヨークでの激しい対立抗争と若い二人の愛を描いたクラシックな物語です。
そんなミュージカルを作り上げた中心人物は下記の4人のメンバーです。
・脚本:アーサー・ローレンツ

・音楽:レナード・バーンスタイン

・歌詞:スティーヴン・ソンドハイム

・原案/演出/振付:ジェローム・ロビンズ

・1947年、ミュージカルの演出・振付家ジェローム・ロビンズが、現代のニューヨークにおいてもシェークスピアのロミオとジュリエット」 のような悲恋が成り立つと思い立ち、その考えを作家のアーサー・ローレンツと作曲家のレナード・バーンスタインに伝えました。

当初は、ロビンスやバーンスタインのルーツであるユダヤ系とカトリック教徒のアイルランド系のギャングの争いという、宗教に重点を置いた構造だったそうです。

ですが1950年代のアメリカでは人種差別がより現代的な問題でした。

 ローレンツが、ユダヤ教の少女とカトリック教徒の青年の悲恋劇を書き、ニューヨーク のマンハッタンを舞台にしていたので、「イースト・サイド物語」 と命題されました。

 しかし、同じテーマのコメディ劇 「Abies' Irish Rose 」 が既にあることが判明し、そのミュージカル版に過ぎないとして、ロビンズは一旦プロジェクトを棚上げにしました。

1955年、バーンスタインがプロジェクトの再開を呼び掛け、ローレンツが1940年代後半からニューヨークで急激に増加していたプエルトリコ系と、白人系のストリート・ギャングの対立を軸にした「ウエスト・サイド物語」を書き上げました。

1957年9月に幕を開けたブロードウェイ公演は大成功を収め、ジェローム・ロビンズはトニー賞の振付賞を受賞しました。

その後、そのロビンズは演出に携わることを条件に映画化を承認し、ダンス・シーンについては彼が主導権を握って撮影が開始されました。

しかし、彼の完璧主義者ぶりは、撮影スケジュールの遅延、予算の超過が危惧される状況を招き、途中で解任させられてしまいました。
その為、ロビンズが携わっていないダンス・ シーンもあります。

ワイズはロビンスの貢献に敬意を表し、共同クレジットとなりました。

キャスティング


マリア役には、オードリー・ヘプバーンがオファーされていましたが、妊娠中だったため断ったそうです。

ロバート・ワイズ監督は、当初トニー役は、エルビス・プレスリーを考えていたそうです。
マネージャーのパーカー大佐がサウンドトラックの独占権が得られないため、首を縦に振らなかったといわれています。

最終的には、ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーが選ばれました。

衣装

衣装を担当したデザイナーのアイリーン・シャラフは、アカデミー賞衣装デザイン賞を5回も獲得した人です。
劇中ベルナルドの黒のTシャツとパンツに、赤の襟付きシャツを上から重ねて前のボタンを開けるスタイルは当時新しかったそうです。

劇中俳優たちが着用したTシャツ、ジーンズ、スニーカーはほとんどオリジナルだそうです。
ストレッチジーンズは当時は無かったので、どのパンツも伸縮性のある糸を使いデニム風に作られた特注品で、莫大な費用がかけられました。
ダメージ・デニムの質感を出すために素材を洗いざらし、また染め直して風に晒すという作成方法で、手間もお金もかかったといいます。

タイトルデザイン


アルフレッド・ヒッチコックやマーティン・スコセッシ作品で知られるデザイナー、ソウル・バスが手掛けています。


オープニングはレナード・バーンスタインの序曲で始まり、5分間かけてイエロー、オレンジ、レッド、パープル、グリーン、そしてブルーと鮮やかな色がゆっくりと変化しながら、タイトルが登場し、マンハッタンのドローイングが実写にオーバーラップし、ビル群を俯瞰した無音の映像に切り替わります。
カメラが街中にズームダウンし、不良少年たちのフィンガースナップが鳴り始めます。

エンディングは映画の結末の余韻を残しながら、カメラが落書きされたレンガ壁をゆっくりとなめるように移動するなか、落書きの文字にズームすると実はスタッフクレジットという演出をしました。


時代背景


アメリカの東海岸にあるニューヨーク市は5区からなっていて、中心部のマンハッタン島にあるマンハッタン区は商業地区です。
このマンハッタン区を東西に分割したときに、東のロングアイランド側を「イースト・サイド」と呼び、西のハドソン川の方を「ウエスト・サイド」と呼びます。

1950年代、高級住宅地のイースト・サイド地区に対し、ウエスト・サイドは貧民街で、ユダヤ系・ポーランド系・中国系・プエルトリコ系といった移民の多いスラム地域でした。

ジェット団

ジェット団は、ポーランド系移民の少年グループという設定になっています。
ポーランドは、18世紀~20世紀にかけて、列強国によって侵略され国が分割されました。
そのため、20世紀初頭までに100万人以上のポーランド人が何世代にも渡ってアメリカに移住したといわれています。
故国から遠いアメリカで「英語を話せない白人」と言われていました。
彼らは「プア・ホワイト(貧しい白人)」と呼ばれ、大半な人は社会の最底辺で力仕事に従事していたそうです。

シャーク団

シャーク団は、プエリトリコ系移民の少年グループという設定になっています。
1898年のアメリカとスペインの戦争でアメリカが勝ったため、スペイン領だったプエルトリコはアメリカの占領下に置かれました。

そして1917年からアメリカ市民権を得ることができるようになったプエルトリコ人の移民が大挙してアメリカに押し寄せます。

また、1929年、世界中に広がった大恐慌により失業率が上昇し、さらに多くのプエルトリコ人が仕事を求めてアメリカ本土に渡りました。
しかし、アメリカに渡っても、差別され狭く不潔な場所に住まわされ、就けるのも低賃金の仕事しかなかったそうです。

こぼれ話



冒頭のシーンでジェッツからバスケットボールを受け取る黒いシャツの少年は、『ホーム・アローン』に主演したマコーレー・カルキンの父、クリストファー・カルキンです。

劇中音楽「Cool」などでピアノを演奏しているのは、当時ジャズピアニストでのちに映画音楽作曲家として有名になるジョン・ウィリアムスです。

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