見出し画像

映画の外側 『007は殺しの番号』 (1962)



監督
テレンス・ヤング
脚本
リチャード・メイボーム
ジョアンナ・ハーウッド
バークレイ・マーサー
原作
イアン・フレミング
製作
ハリー・サルツマン
アルバート・R・ブロッコリ
出演者
ショーン・コネリー
ウルスラ・アンドレス
ジョセフ・ワイズマン
ジャック・ロード

音楽
モンティ・ノーマン
撮影
テッド・ムーア

あらすじ

ストーリー 宇宙ロケットの妨害電波の調査をしていたイギリス諜報部員が、ジャマイカで殺される。イギリスは、敏腕諜報部員コードネーム007ことジェームズ・ボンドを現地へ派遣する。ボンドは、ドクター・ノオと称する中国人博士が持つ島に隠された謎を知るのだが……

概要


本作はシリーズ中最も低予算で製作されました。100万ドルだったようです。しかし、興業は抜群に良く、6,000万ドルに近かったのです。1962年の世界興行成績第1位の作品となりました。

フレミングは1953年に処女作となる『カジノ・ロワイヤル』を執筆しました。
第二次世界大戦中にイギリス海軍情報部に所属して得たさまざまな情報や、自身が立案してきた作戦情報を踏まえつつ、それまでイギリスで主流だったシリアスで暗いスパイ小説とは違い、車、ギャンブル、酒、煙草、旅、女性関係などの享楽的な趣味を存分に詰め込んだ娯楽的な作風は驚きを持って迎えられたそうです。
この年は、マリリン・モンローのヌード写真を中心に置きつつ、ファッション、政治、ライフスタイル、小説、セレブリティを紹介した『PLAYBOY』の第一回目が発刊した年です。
以降、アメリカ版『PLAYBOY』に007シリーズが掲載され、女好き、旅好き、趣味人、スノビッシュなジェームズ・ボンドはプレイボーイのアイコンとなりました。

制作にあたって


気鋭の映像作家ケヴィン・マクローリーと出会ったフレミングは共同で映画会社を立ち上げ、007シリーズの映画化を目指します。

マクローリーは「これまで刊行されたシリーズは映像化に向かない」と進言、自身が経験のあった水中撮影をメインにした海洋冒険物にし、敵の組織もソ連を初め世界の犯罪を裏から操作する犯罪組織「スペクター(=「亡霊」)」にしようと提案しました。

共同脚本で『サンダーボール作戦』の制作を始めるが、マクローリーの手腕に疑問を抱いたフレミングは一方的に協働体制を放棄し、執筆中だった脚本プロットを引き上げると無断で完成させ、長編第8作『サンダーボール作戦』として1961年に発表します。

出版される直前にその内容を知ったマクローリーは、自分たちが作ったストーリーに酷似していると激怒。訴訟を起こし、小説は出版されたものの、映画化権の行方については解決までに3年を要することになりました。

結果、以降の長い裁判は映画シリーズにも影響を与えることになります。

オープニングタイトル

オープニング・タイトルをデザインしたのはモーリス・ビンダーです。
1950年代から1960年代には、ソール・バスと並んで人気のデザイナーでした。
まず、有名な銃口のシーンがあらわれ、やがて丸いドットの形に変わると、モンティ・ノーマン作曲のおなじみの「ジェームズ・ボンドのテーマ」に合わせて、たくさんのカラフルなドットが画面いっぱいに動きながら、モダンなパターンを構成していきます。

ビンダーの作品は鮮やかな色使いに特色があり、『007 ドクター・ノオ』や『シャレード』のオープニング・タイトルで顕著に現れています。

映画『007シリーズ』において、よく知られる冒頭のスクリーンの中を歩いて横切るジェームズ・ボンドが、こちらに向かって銃を撃つと、上方から血が流れ落ちてライフルの刻まれたガンバレル(銃身)の中から写した形の映像になっているため、ガンバレルシークエンスと呼ばれています。
戯れに銃口の中を覗き込んでみたビンダーが、銃身の内側の造形に感心して使ってみたといわれています。
本来は『007 ドクター・ノオ』のオープニングの冒頭部分に過ぎなかったが、第2作として『007 ロシアより愛をこめて』が製作された際、編集のピーター・ハントの発案で使用されることになったといわれています。
以後、第20作『007 ダイ・アナザー・デイ』まで使用され、007シリーズの冒頭を飾る映像として広く親しまれ、多くのパロディがうまれました。

当のビンダーは、一回きりの作品と思って制作費のみを手にしましたが、「ライセンス制にしておけば、シリーズごとに収入が入ったのに」と、本気で落胆したそうです。

キャスティング


ジェームズ・ボンド役候補として、ケーリー・グラント、パトリック・マクグーハン、ロジャー・ムーアなどが候補だったようです。なお、ロジャー・ムーアは後に3代目ボンドとなります。

主役に選ばれたコネリーは1930年エジンバラでうまれました。
少年時代から牛乳配達トラックの運転など様々な職に就いた後、ロンドンに出てボディビルのコンテストに出場し、3位になりました。
初めて演技の仕事を得たのは22歳の時で、ミュージカル『南太平洋』ロンドン公演のアンサンブルでした。

監督のテレンス・ヤングはコネリーのボンド像を作り上げた最大の功労者となりました。「振る舞いが粗野だった当時のショーンに、テレンスがいろいろと正しい行儀作法を教えたんだ」と、当時コネリー時代のボンド映画のほとんどでプロダクション・デザイナーを務めたケン・アダムは話していたそうです。

テレンスはコネリーをロンドンの高級レストランに連れて行ったり、自分のビスポークテーラーであるアンソニー・シンクレアを紹介したりしていたそうです。
コネリーがすべて手作業で作られた新品のスーツを着て眠ったという有名な逸話があります。

時代背景


本作は1962年10月5日にイギリスで公開されました。
10月16日にはキューバ危機が起こり、世界は冷戦が再び熱い戦争になるのではという恐怖を味わいます。
いまにも第三次世界大戦を迎えるのではないかという緊張感の中、無敵の男ジェームズ・ボンドがボロボロになりながら危機を救う大胆なストーリーに世界が熱狂しました。

本作の主な舞台はジャマイカですが、この地は過去イギリスの植民地だった過去があり、本映画公開の1962年というのは、このジャマイカがイギリス連邦加盟国として独立を果たした年です。

また同じカリブ海に浮かぶキューバでは1959年、カストロが親米政権を倒しソ連と接近するようになります。
そして政治的圧力をかけるアメリカに対抗して、キューバ国内にソ連製核ミサイルが配備されていきました。
本当にあと一歩で世界的核戦争寸前で、ソ連のフルシチョフは核ミサイルの撤去を提案し
米国サイドもトルコにある対ソミサイルの撤去、およびキューバに軍事介入しないという条件を認めました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?