親ガチャ

1 去年新聞を読んで初めて知ったのが、「親ガチャ」という言葉である。

 「親ガチャ」とは、一般的には親や家庭環境の良し悪しをランダムに決定されるかのように表現した言葉である。これは、人が生まれる際に親や家庭環境を選べないこと、つまりその条件がランダムに決まるかのようであることから、ガチャガチャ(カプセルトイ)のようにランダム性を持つという意味合いで用いられる(「実用日本語表現辞典」より引用)。
 親ガチャは、ネットスラングとして広く認知されており、特に若者の間でよく使われる。親ガチャの結果は、その人の人生に大きな影響を及ぼすとされ、教育環境や経済状況など、多くの要素が関連している、と。

 「親ガチャ」の例としてしばしば取り上げられるのが、東大合格者と親の年収の間の相関性である。

 東大に合格するには、入学試験において一定の点数を叩きださなければならない。それに必要な学力を身に着けるためには、高校から予備校に通って入試対策をするのでは遅すぎる。東大を始めとした難関大学の合格を見据えた教育カリキュラムを設けている進学校に入学するには、中学時代からの塾通いは当たり前で、中高一貫の学校に入ろうと思えば、小学生から連日連夜の塾通いである。
 子供の頃からの塾通いやとりわけ中高一貫の私立校に通う経済的負担に耐えるには、自ずと親に相当の経済的余裕・年収がなければならず、親にそうした経済的余裕・年収がない家庭に生まれた子が東大に合格するのは困難だろう。
 
 したがって、親の年収が高いという事は「東大に合格する」という目標から考えると、子供にとって非常に有利な「ガチャ」を引いたという事が出来る。
 ただ、東大に合格するのに必要な学力を身に着けられるか否かは、最終的には本人(=子)の努力次第である。だから、幼少期からの塾通いに耐えて、晴れて東大に合格した子がそれを「自分の実力」ないし「努力の結果」として受け取るのは心理的には当然の反応だろう。

 こうした受験の結果を本人の努力の正当な対価と捉える「実力主義」の立場からは、「親ガチャ」による結果の不平等、つまり、親の年収が相対的に低く子供に対する教育投資が十分に出来ない家庭の子に対しては、「奨学金を拡充する」事で「親ガチャ」による不平等を是正すべきだと一昔前は言われていた。果たしてそれで「親ガチャ」による不平等が本当に是正されるのだろうか?

2 マイケル・サンデルの『実力も運のうち』を読んで私も色々と考えさせられたのだが、「親ガチャ」において、親の年収が高いことはおそらく東大の合格という目標を達成する上で有利ではあっても、決定的な要因ではないと思う。

 同書においてサンデルが述べていた内容のうち、親が教育熱心であり、子供の頃に自分で勉強する習慣が身に付くか否か、あるいは、親を始めとする一族に高等教育機関に進学した者がいるか否か、といった子供が生まれた「家の環境」の違いが(子が)よい大学に進学し、高い年収を得る職業に就けるか否かにおいて極めて大きな役割を果たしている、という指摘にはハッとさせられた。
 親兄弟が全て東大卒であれば、相当なプレッシャーを感じるだろうが、子も「東大に入るのが当たり前」と考えて、幼少期から東大合格を目指すようになるだろう。
 これとは逆に、親兄弟がみな高卒ないし専門学校卒で、正月に集まった親族に誰も大卒の人がいなければ、そもそも子には大学に行こうという発想すら生まれないと思う。

 奨学金というのは、それを貸与制にするか無償化するかは別にして、基本的に大学(さらには大学院)に行って学ぶ意欲のある人のための制度である。そもそも大学に行く気がない人にとっては全く意味がない。
 だから、東大に合格する上で親の年収が高いことが有利だという「親ガチャ」による結果の不平等を是正するために、「奨学金を拡充する」事がベストな解決策だとは私には思われない。

 「親ガチャ」の本質は、やはり学習意欲や勉強の習慣を子供の頃に身に着けられるか否か、ひいては学歴社会において自分の人生を主体的に切り開くために必要な能力の下地が与えられるか否か、という機会の不平等を生み出す点にあると私は考えている。
 サンデルが提起した問いは、「東大生は自分の実力で東大に合格できたと思っているが、それは君の家庭環境という生まれが良くて、たまたま大学進学する意欲を持ち、それに必要な努力をする習慣を身に付けられたから」で、要するに「君が東大に合格して、今高い年収を得ているのは、運が良かったに過ぎない」。それにも関わらず、その生まれという運に基づいて得た現在の収入をすべて自分の実力ないし努力の正当な対価と考えるのは不公正ではないだろうか?というモノである。

3 東大を目指して合格した人とそうでない人の間の格差については、当人の努力の差としてこれを正当化する事が出来る場合もあるだろう。だが、次のような事例はどうだろうか。

 私が通っている道場にはMMAクラスが併設されており、グラップリングはMMAクラスと柔術クラスの両方の会員が一緒に練習する。
 MMAクラスは柔術クラス以上に新陳代謝が激しいが、10~20人に1人くらいの割合で「これは!」と思うようなセンスのある子が入会してくる。
 彼らに何かテクニックを教えると吞み込みが本当に早い。それだけなら、特段驚く事もないが、翌週になると彼らは私が教えたテクニックの応用に当たるテクニックを自分で編み出して使ってくるのである。
 こういう非常にセンスのある子は、皆MMAのプロを目指し、二十歳になる頃には高みを目指してより大きな道場に移籍していく。私から彼らに家庭環境を尋ねる事はないが、彼らの話を聞いていると、だいたい片親で、高校を出たか、中退した子がほとんどである。プロを目指しているか否かというモチベーションの差を差し引いても、大学に親元から通っている子達と比べると、実力の伸びる速度が別次元と言ってもいいほど速い。
 
 彼らはMMAのプロを目指して、アルバイトをしながら毎日必死で練習している。私が10代の頃を思い返すと、彼らのように人生に対して真摯に向き合っていなかったという反省もあって、彼らの質問には出来る限り答えるようにしているし、彼らの成功を切に願っている。
 
 ただ、時折ふと「この子らの家庭環境に問題がなければ、普通にいい大学に進学して、もっと安定した生活がおくれるはずなのに・・・」と思ってしまう。
 ニュースを見ていると、現役を引退したアスリートが一念発起して医者を目指すという話を時折耳にするが、トップアスリートになるためには、自分の頭で考えてトレーニングしなければならず、裏を返せば、トップアスリートになれる人は地頭がいいと私は確信している。だから、何年か後に彼らが医者になったと聞いても私は驚きもしない。
 トップアスリートの人々と比べると落ちるかもしれないが、私がグラップリングで接している(た)MMAクラスの子も地頭が非常にいい。

 MMAでプロとして結果を残しても、UFCにでも行かない限り、ファイトマネーだけでは食べていけないという現状を考えると、不利な「親ガチャ」を引いてしまったが、おそらくはどんな分野に行ってもそれなりに成功できる能力(努力するのもひとつの立派な才能である)を有する子供達に対して、もっと機会の平等が与えられるようないい方法はないだろうか?と思っている。残念ながら、今の私には妙案がない。


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