MONCLER

1 今年は久しぶりに初詣に行ってきた。人混みは苦手なので、近場の神社で済ませたのだが、境内は善男善女で溢れ返っているかと思いきや、人出はコロナ前の半数弱で、手水鉢に至っては鉢に蓋がされて、人感センサーで糸のようにか細い水が流れているのに驚かされた。
 
 私は日本で統計上一番多いはずの「とりあえず真宗」で、個人的に特定の宗教を信仰している訳ではないが、お参りの際の「二礼二拍手一礼」は古流で仕込まれたので、堂に入っているのではないかと密かに自負している。
 「神道には元々救済の思想はないから、賽銭額に応じて福が来るわけでもあるまい。こういうのは額ではなく、形式が重要なのだ」と賽銭箱の前で妙な言い訳を自分にして、財布から10円玉と1円玉をかき集めて、投げておいた。きっと、後ろに並んだ子供達の方が私よりも多額の賽銭を入れていたはずである。
 
 さて、お参りを終えて参拝客の列を離れると、感じのいい老夫婦が「モンクレー(MONCLER)」のダウンを着ているのが目に入った。
 モンクレーとはまた懐かしい。


 私が上京した頃は、ノースフェイスのカマボコ型のダウンが大流行していて、冬の渋谷を歩くと右を向いても左を向いても(若者達は)ノースフェイスのダウンを着ていたのを覚えている。ノースフェイスのダウンの当時の価格は3万弱くらいで偽物も結構出回っていたらしい。同じ頃にセンター街では「CHANNEL」というロゴの入った「CHANEL」のバッタ物が売られてた。

2 私はと言えば、他人と被るのが嫌だったのと、同じカマボコ型のダウンでも「モンクレー」の方が圧倒的に格好良かったので、「モンクレー」のParisが欲しくて欲しくてしょうがなかった。20年以上前の「モンクレー」は都内でも限られたセレクトショップでしか取り扱いがなく、しかも価格は一番安いParisで6万近くしたから、どこの取扱店でも「モンクレー」のダウンは入口から一番遠い奥まった所に陳列されて別格のオーラを放っているように私には感じられた。
 上京した最初の年は「モンクレー」に手が出なかったが、小金を貯めて翌年の秋に「モンクレー」のParisを(たしかSHIPSで)購入した時はさすがに興奮した。19歳の私には、6万近い大金を・・・今の私にとっても大金である・・・服に使ったのは人生で初めての経験だったからである。
 今でも「モンクレー」を初めて着た時の感触をよく覚えている。それまでは高校時代に親が買ってくれた化繊のダッフルコートやスタジャンを着ていたが、とにかく「モンクレー」のダウンは軽い。ダウン90%フェザー10%だったのではないかと思うが、羽のように軽い。そして、何より保温力が化繊のアウターとは全く別物と言っていい程優れている。「モンクレー」のダウンがあれば、インナーはネルシャツや薄手のセーター一枚で東京の冬は十分過ぎたくらいである。惜しむらくは、当時の私のワードローブの中では「モンクレー」だけが飛び抜けてイイ物だったので、傍目にはお洒落というよりかなり無理をしている痛い若造に見えたであろう点だけである。

 それから数年後には、秋になると東京じゅうのショップの店頭に「モンクレー」が並ぶようになり、友人と伊勢丹にバジーレを買いに行ったりもした。今振り返ると、私の20代の冬のカジュアルアウターはずっと「モンクレー」一筋だったような気がする。

 その後、「MONCLER」自体がデザイナーズ化してパリコレに出品するようになり、価格も倍以上に値上がりしただけでなく、私が好きだったParisを始めとする型が全て廃止されてしまったので、「MONCLER」を買う事はなくなった。
 
 「モンクレー」は「モンクレール」と呼称を変え、価格やデザインが一新されて庶民には手の届かないハイブランドになってしまったので、セレクトショップではその後「モンクレー」の代替品として、「デュベティカ」や「カナダグース」等々次々に新しいメーカーのダウンが並んでいたが、それらも輸入元が変わるたびに価格が上がってしまったので、私は結局それらを試着する事はあっても購入するには至らなかった(もっとも、「カナダグース」のジャスパーは日本に最初に入って来た時は6万円弱で本気で「欲しい」と思ったが、身長の割に肩幅がある私の身体にはMでは小さく、Lでは大きかったので、ジャストサイズであれば間違いなく購入していたと思う)

3 私が「モンクレー」のParisを購入した時は、間違いなく冬のアウターとしてはダウンジャケットが一番軽くて暖かかったが、今では化繊でも軽くて暖かいアウターが沢山出回っている。
 そういう状況で、あえて真正のダウンジャケットを買うのは本当に贅沢な行為になってしまった。

 「モンクレー」「デュベティカ」いずれの話だったか忘れてしまったが、それらのジャケットで使われているダウンは、フォアグラを取るために育てられたガチョウの羽だったそうである。「動物愛護」の観点から、そうしたガチョウの飼育に非難が集まったがそうだが、10年位前から毛皮の使用にも厳しい目が向けられていると聞く。現に「カナダグース」が初めて日本に入ってきたときは、フードにファーが付いていたが、今では無くなっている。
 私は「動物愛護」という言葉を振りかざして、日本の調査捕鯨船に体当たりするような連中が大嫌いである。彼らは「動物愛護」の名の下に無知な金持ちの贖罪意識に付け込んで、「活動費」として中世の教皇庁さながらに免罪符を売り歩いているようにしか見えない。
 必要もないのに動物を虐待するのはおかしいと思うが、人間は他の生き物の命を糧に生きているという意味で、他の生き物全てに対してある種の原罪を負っている。「活動費」という名で免罪符を買ったからといってそうした原罪が贖われる事はあり得ない。

 久しぶりに初詣をし、「モンクレー」のダウンジャケットを着ている人を見て、新年早々思った事をここに書き連ねた次第である。
 

 

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