「日本の弓術」を読む

1 読者の方からオイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」を読んで、感想を書けというメールを頂いた。読書感想文を書くのは小学生の夏休み以来なのではないかと思うが、それもまた一興だと思って「日本の弓術」を手に取って読んでみたのである。
 同書では、オイゲン・ヘリゲルというドイツの哲学者が、戦前に東北大に赴任した際に阿波師範の下で弓術の稽古に励み、稽古を通して彼なりに日本的精神を理解しようとした奮闘が書かれている。
 弓術の稽古は、「的に当てる」技量を向上させるためにあるというスポーツ的な発想で稽古を始めたヘリゲルが、阿波師範の「弓術の目的は精神的修養にあ(り)」(『日本の弓術』岩波文庫15頁)、「弓術はスポーツではない。したがってこれで筋肉を発達させるなどということのためにあるのではない。あなたは弓を腕の力では引いてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばなければならい」(同書27頁)という指導に困惑しつつ、ドイツに帰るときには「無我の境地」で弓を引くことが出来るようになるまでの過程の描写は読み応えがある。
 私は古流とブラジリアンの「柔術」しか稽古したことがないので、「弓道」については全くの門外漢である。だから、「弓道」プロパーの事については何も語ることは出来ないが、本稿を読んで私なりに「武術」と「武道」の関係について思った事を以下に綴って見ようと思う。

2 「弓道が術に非ずして精神修養の手段であり、悟道の方法である」(同書86頁)と阿波師範は説いたそうであるが、ここに見られる「術」と「道」の関係についての考え方が私の興味を最も引いた。
 「術」はある設定された目的(=結果)を最も効率よく達成するための手段を追求するものである。
 弓術であれば、「的に当てる」のを目的とし、そのために「矢を射放つには特別な仕方があ(る)」(同書37頁)と思って、その技巧に工夫を凝らす術理の探求が弓術の稽古になる。
 ブラジリアン柔術であれば、試合に勝つことを目的として、それに有用な各種の「ガード」や「ベリンボロ」を始めとするモダン柔術の技術の習得に励むのが手段としての練習にあたる。
 だが、「弓道」(注1)はそうした「的に当てる」といった即物的な目標を立てるのではなく、その稽古を通して、「悟道」つまり悟りを開くというのが阿波師範の言う「弓道」の目的なのである。平たく言えば、的に当たるか否かは弓道の目的にとって本質ではない。

注1)実はヘリゲル本人は「弓道」という言葉を使っていない。

 「術」に対する「道」の考え方は、「術」が即物的な目標を設定しそれを達成する手段を追求するのに対して、「道」は精神修養にあるというのは、ハッキリと意識されてはいなくても、武道に携わる人々の間では比較的広く共有されていた区分法なのだろう。
 ただ、「道」そのものの語は、儒教における最高概念である「仁」(「まごころ」と訳される事が多い)に至るための方法(英語で言えば、How Toである)でしかなく、実はこの「道」は空概念に近い。阿波師範の場合、この「道」に禅の教えを取り入れたようであるが、原理的にはここはあらゆる宗教と結びつきうるという問題点がある。
 海外ではテコンドーとカルト化した宗教団体が結びついているという話をしばしば耳にするし、私個人としては「道」が「術」より価値があるとは必ずしも思っていない。それと言うのも、古流を稽古していた時に「そもそも武術とはこういうものだ」と言って、自分の価値観を押し付けようとしてきた自称「武道家」達に数多く接して辟易した記憶があるからだ。
 また、「ブラジリアン柔術」の場合まさに名が体を表しているが、柔「術」ではあっても、柔「道」ではない。だから、少なくともそこに宗教的要素が入り込む余地は極めて少ない。
 ただ、「弓道」が阿波師範が述べたように禅的な要素をどこまで精神的基盤としているかは分からないが、武「術」にあってはそうした精神的基盤が欠けている弊害を指摘することは可能だと思う。
 「ブラジリアン柔術」であれば、公式試合に勝つという勝利至上主義が蔓延してる。試合に出る事それ自体が非日常の貴重な経験をもたらしてくれるし、これに勝つことが出来れば喜びはひとしおであろう。だから、私はこれまで何度も書いてきたように公式試合の価値を否定するは毛頭ない。だが、「なぜ試合があるのか?」というブラジリアン柔「術」としての目的については一度自分なりに考えて各人が整理しておいた方がいいと思う。
 ブラジリアン柔術の公式試合の歴史はたかだか30年足らずである。その間ルールはたびたび改正され、勝つためにステロイドを服用するのがトップレベルでは当たり前になってきている現状を考えると、「なぜ試合があるのか?」「どうして私は試合に勝たなくてはならないのか?」という疑問を持たず、「試合があるから」とブラジリアン柔術における現在の試合の有り様について思考を止めてしまうのは良くない。試合に勝てるのはブラジリアン柔術を練習している人の中でもほんの一握りに過ぎないことを考えると、「帯昇格に必要だから」等の安易な理由で試合に出るのは止めたほうがいい。
 試合に勝てる人や仮に負けたとしてもそれに拘らない人はどんどん試合にチャレンジすれば良いと思うが、ブラジリアン柔術を練習する人の大半は(私も含めて)試合には向いていない。
 だから私の場合、試合に勝つ事を柔術の目標とはせずに、「セルフディフェンス」を目的に柔術の稽古を続けている。試合に勝てる人々から見れば「お前は試合(に勝つ事)から逃げている」と思われても仕方がないが、無理な目標を掲げて稽古を辞めてしまうよりはよほど私の精神衛生にとってはプラスになる。
 
3 「目的」と「手段」の関係を超えたところに「道」があり、人格的完成の手段として「術」を捉える。また、阿波師範の言を読んでいると、合理主義的な思考に基づき、「このテクニックを覚えれば、こういう成果が上げられる」といった類の効率一辺倒の考え方に反省を迫らされる。
 「弓術(道)」や「禅」の思想を離れて、「武術」と「武道」の関係を改めて考えさせてくれる一冊であった。私が「武道家」ではなく、「武術」家と称しているのも本稿を読んで下さった方にはお分かり頂けたのではないかと思う。

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