女子大生

1 私が10代の頃「女子大生」と言えば、「女子大の学生さん」を意味していたように思う。もっとも、当時大学の同級の女性にその旨を聞いて見ると、「女子大生は女子大学生の略でしょ?」というご回答だった。
 まあ、その女性が「ワタシも女子大生よ!」という趣旨でそう答えたのかは分からないが、二昔前までは「女子大生」=「女子大の学生さん」という意味で使われていたように思う。
 なぜ本稿で「女子大生」という言葉にまつわる私の思い出に触れたかと言うと、郷里の「女子大」が今度から共学化する事が決まったという話を聞いたからである。
 私の親世代では、親のしつけが厳格だから、とか、悪い虫が付かないようにとかいう理由で、受験すれば普通に難関の国公私立大学に合格できる学力を持ったお嬢様方の多くが「女子大」に通っていたそうである。
 10年くらい前から「女子大」を共学化する動きがチラホラと出てきて新聞にも載っていたのを覚えている。そうした現象を見たある識者が「『女子大』が男子学生の入学を認めないのは、男女平等を定めた憲法に反するから、ジェンダーフリーの観点から昨今の流れはまことに好ましい」というようなコメントをしていて、随分と頓珍漢な事を言っていると感じたものである。
 「女子大」の共学化は、・・・ジェンダーフリーという理念に即してなされている大学もあるのかもしれないが・・・要するに「少子化」で、女子学生が集まらなくなったから、大学が生き残るために(=男子学生も受け入れて定数を埋めるために)止む無く共学化するに至っているというのが実情である(少なくとも私の郷里にある「女子大」はそうコメントしていた)。

2 「少子化」による「大学全入」時代を迎えて、大学の生き残り競争は本当に厳しくなっているようだ。昔は受験戦争という言葉があったくらい学生間の競争がし烈だったのに今やすっかり立場が逆転している。
 だから、必ずしも全国的なブランド力のない大学では、研究者(いわゆる「大学教員」)が学生(高校生等)の勧誘から、就職の世話まで当たり前のようにやっているらしい。
 大学教員のポスト自体が少なく、学者志望の若者は大学教員になるだけで大変な思いをしているのに、大学教員になったら今度は自分のやりたい研究とは全く関係のない、というより研究に必要な時間や体力、気力を奪われるだけの大学の「雑務」(「鬱務」というべきだろう)に追い回されて疲れ切っているという話を聞いていると、彼らはいつになったら研究する時間が取れるのだろうと同情してしまう。
 
 日本のアカデミズムにおける国際競争力がここ最近顕著に低下していると言うが、その一つの、そして極めて大きな要因は、大学教員から研究をする時間を奪っている事にあると思う。
 私が大学の頃に指導教官の先生に、「学者ってのは研究の(業績)の対価として給料貰っているのではないのですか?」と尋ねると、その先生は「給料は学生に対する講義の対価として出ているんだよ。だから、講義するのがどれだけ嫌でもめったな事では休講にしてはいけないのさ」と答えて下さった。
 今や大学教員の給料は「講義」の対価ではなく、先に述べたような「鬱務」(センター試験の監督等も含まれる)に払われているように見える。
 そうした「鬱務」はいわゆる大学職員でも出来るはずである。日本のアカデミズムの復興を目指すのであれば、「選択と集中」という理解不能なワードの下に助成金の分捕り合戦をさせるのではなく、もっと大学職員を増やして、大学教員を「鬱務」から解放してあげるべきである。その方がアカデミズムの復興により効果的で、助成金を増やすよりずっと安上がりだと思うのだが。どうだろうか?

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