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生きがい

大澤真幸氏のインタビュー記事を読んだ。AIは人間の仕事を奪い巨大私企業は利潤をふくらませる、AIはいずれ国際管理が必要だ。というような内容だ。
AIが人間の仕事を奪うのか、その能力があったとして人間社会がそれを受け入れるのか、そしてそれがどこまで社会実装可能なのかどうか、かなり疑問に思うのだがそれはさておき人の生きがいについても触れられていた。

他者から必要とされず、承認もされない中で自分の生きがいを保てるか…...多くの労働者は生きる意味を失い、アイデンティティーの危機に陥るでしょう

https://digital.asahi.com/articles/ASRB02TN8RBQUPQJ003.html

創造性の高い仕事すらAIに奪われてしまうことについて触れている箇所なのだが、ここから「承認」とか「生きがい」について少し考えてみようと思う。

ここ数年、おもにSNSの利用者が急激に増えてからだと思うのだが「承認欲求」なるコトバをネット上の様々な場所で見かけるようになった。
そもそも人は他者から「必要」とされたり「承認」されなければ生きていけないものだと思う。しかしそれは兄弟・友人・同僚、あるいは親と子・教師と生徒・上司と部下・店主と客など、身近な他者との接点や関係が前提だ。こういった他者と挨拶をしたり短い会話を交わしたり、あるいは利害関係や慣習に依ってなんとなく一緒にいたりすることから他者との関係は生まれ醸成される。そして「必要」や「承認」はこういった学校や職場、地域社会や家族などにおいて他者との関係性から互いに日常的に無意識に確認されるものである。

しかしネット(SNS)でのやり取りは(ほとんどは)身近な他者同士によるものではない。しかしそこで「承認」を「欲求」する態度はすなわち実社会で承認を得られていない(実感していない)か、もしくはネットで「必要」とされ「承認」され「生きがい」が得られるという期待からなのだと考えられる。

そもそも「生きがい」とは人と関わりお互いに「必要」とされたり「承認」されることで得られるものだ。日常的に無意識にそれが確認されていれば「承認」を「欲求」するなど問題にならない。しかし人々の関係や結びつきが弱くなっていく一方の現代社会である。ネットをその拠り所として期待せざるを得ないのも無理はない。かくいう私もその一人である。

ならば現代社会において、とりわけネットを介して「生きがい」を得ることはできないかといえばそうではないと思う。
人は生きがいを見つけるものである。日常の中でちょっとした冒険があったり発見があったりするものである。学校や職場の帰りに少し寄り道をしてみたり、新しいサブスクライブサービスに課金してみたり。
しかしそこには人の存在は必要条件である。というより前提条件だ。

人は寄り道の先に人の存在を期待したりあるいは人の存在から離れるために寄り道をする。寄り道の前も後も人と会うことがなければ寄り道も何も無い。
あるいは、vtuberの動画には人の顔は写っていないが喋ったりゲームをしたりするのは人である。「AIひろゆき」のようなものもあるが、受け答えから発話まで人間の介在を必要としないyoutuberが広まっているとも思えない。必要とされているのはvtuberの「中の人」や「ひろゆき」なのだ。

人々の関係や結びつきが弱くとも人は「生きがい」を見つけるものである。そしてそれがどんなに弱いものであろうとも、そこに人の存在を希求する。そしてこの「生きがい」はAIでは代替し得ない。

大澤氏はこのままAIが活用されていくと知識が私企業に所有され格差が極大化していくと警鐘を鳴らす。
格差の極大化はいわゆるグローバル化の作用も相まって現実的な問題である。しかしAIが人間の仕事を奪っていくとしても、その仕事から得られるモノやサービスを享受するのは人でありそこには人の存在は不可欠だ。そして人は仕事を奪われれば新たな仕事を創造する。

人は人を通して「生きがい」を得る。「生きがい」や「生きる意味」を失えば新たに創造する。そのあり方こそが人間である。


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