指導教授、たのむからだまっといてくれ――愛の終わり〔創作小説〕

 僕はガールフレンドのナツミのワンルームアパートの壁際にポツンと置かれたスツールに腰掛けながら彼女にその話をはじめた。ナツミはベッドに寝そべりながら、ああね、と気のない相槌を打った。

 いまにも落ちそうなまぶたを指でこする夜勤明けのナツミにその話を聞かせる数時間前、僕は大学院の指導教授の研究室に行ってきた。前日に研究室に来るようにとメールがあり、僕はしぶしぶ、朝から大学に行くことになった。僕は大学院生だから「しぶしぶ大学に行く」という表現をしたら、不思議がられるかもしれない。でもナツミは会話を遮らずに質素な相槌を打った。ナツミは、僕が修士課程を留年したことがきっかけで大学に行かなくなったことを知っていたから。いずれにせよ僕は修士論文を書かずに休学していた。もう2年も。その間、指導教授の水元先生とはほとんど連絡を取っていなかった。休学を継続する連絡を半期ごとに何度かしたことを除くと、先生とはメールでさえ言葉を交わすこともなかった。ああそういえば、一度だけ、先生が公表した論文のPDFファイルがメールで送りつけられてきたことがあった。当たり障りのないメッセージが添えられて。そんなふうに休学している時間の経過とともに距離のできてしまっていた指導教授から大学に来るようにと連絡が来たのだった。僕は久しぶりに指導教授と会わなくちゃいけなくなった――このことは、昨夜、君が夜勤に行く前にこの部屋で話したとおりだ、と僕はベッドに身体を横たえたままのナツミに付け加えた。

 そして今朝、僕は自分の家のクローゼットの前でキチンとアイロンのかかったドレスシャツが、トーマスメイソンの生地を使った派手なものしかないことに気づいた。ブルーとホワイトが成すストライプのクッキリと出た、どちらかといえば派手なシャツ。シャツには、いつ出したかも覚えていないクリーニング屋の匂いが染みついていた。皺が寄っていても無地のシャツを無難に選んだ方がよいかと迷ったけれども、あまりにもだらしのない生活をしていると先生に思われるのは嫌だろ、そう考えて結局のところ僕はそのストライプのドレスシャツを選んだ。自分の装いを真面目に考えたのは久しぶりのことだった。ある時期まで、精確に話せば大学院を休学するまで、あれほど洋服に凝っていたというのに。

 そのようにして選んだシャツのことを、指導教授である水元先生が数秒でも意識して目にしていたかどうかは僕にはわからない。先生は洋服というものに関心がない。たぶん先生は、洋服というものを、英和辞典が説明するファッション(fashion)という意味のなかでも、「流行」、「流行のもの」というふうに理解していたのかもしれない。あるいは、かつて洋服に気を遣っていた僕のような人間のことを、先生は外見だけの、中身のない空っぽなタイプだと考えていたかもしれない。僕には水元先生の心の奥底がわからない。ただ、水元先生は、その地位が一瞬で相対化されて置き去りにされてしまうような流行りものからつねに距離を置いていた。先生は19世紀のドイツの本を好んで読んでいて、つねに研究対象としてきた。先生はクラシカルなものを好んでいる。音楽もクラシックを好んで聴いていた。文学も古典を好む。たしか車もクラッシックカーだった。でも、クラシカルな装いのファッションには興味がないようだった。つまり、外見には全く無関心な人だった。話を本題に移そう。先生はイェーリングという19世紀の法学者を好んで熱心に研究している。その研究に対する情熱はその法学者自身のことを愛しているといっても差し支えないかもしれない。曰く、先生はそのイェーリングという学者が執筆した『権利のための闘争』という古典に人生を導かれたらしい。先生は法学部に入学した直後にその本を初めて読み、感銘を受けた。修士論文も博士論文もイェーリングについて書いた。大学教員になって研究者になった後も、先生の机の上にはずっと彼の本が置かれていた。ちょっとした旅行や出張にも欠かさず持ち歩いていた時期もあったらしい。まるでお守りのように。大学における研究とは別の、面倒な仕事や事務作業でどれだけ退屈させられたり嫌なことがあったり不安に苛まれたとしても、その本を開けば、穏やかな気持ちを取り戻せたらしい。先生は還暦を迎えた今になってもその古典のページをめくると新しい発見があり、その価値はまったく色褪せていないと繰り返すように口にした。先生はよく言っていた。書物ってのはその著者の分身みたいなものだと感じることがある、この本の傍にいるとイェーリングをすぐ身近に感じられるんだ、と。

「へえ。大学の先生ってやっぱり本の虫なのね。わたしには考えつかない発想。それにしても、『権利のための闘争』、なんだかおもしろいタイトルね。そういえば、あなたの大学や研究とやらについての具体的な話はあまり聞いたことがなかったな」ナツミは僕の話が始まってから初めてベッドから顔をあげて、澄んだ瞳をこちらに向けた。
「そうかもしれない。先生はイェーリングが大好きなんだ。もっと極端なことも言っていた。彼の本のページを一心不乱に夢中になってめくりながらイェーリングの思索に降りてゆくうちに、時々、自分自身がイェーリングになったかのような気分になるとも。先生の思索が本という器を介してイェーリングの思索と『ひとつ』になるみたいなね」と僕はナツミに頷いてみせる。
「案外、ロマンチックな一面もあるのね」ナツミは言った。
「ああ。先生は論理的に物事を徹底的に考える人だけれども、そういう比喩表現を用いるようなロマンチストな一面も備えている」。僕はナツミが退屈そうな顔を浮かべていないことに安心しながら話を続けた。「そう、まあとにかく話を戻そう。水元先生は僕が身に着けたシャツには当然のことながら一瞥もしなかったと思う。いやもちろん、視界には入っていたと思うよ。でもこのシャツがどこの生地のもので、どんな襟型で、どんなボタンを使っていて、どんなファクトリーのどんな職人によってどのようにして仕立てられたものなのか、なんてことは気にもしなかったと思うよ」
「まあそうでしょうね。でもあなたはキチンとした恰好をしていったのね」
「うん。久しぶりだったからね」
「わたしとデートする時も皺のないようにアイロンでキチンと伸ばしたシャツをいつも、つねに着てほしいかな。あなた、ファッションに疎い人だと思ってた」そう言ったナツミは大きな欠伸をすると小さな頭を枕に預けた。ナツミの顔が僕から見えないところに消える。もう話に飽きてしまったのかと一瞬思ったけれどもかまわず僕は話を前進させた。

 僕の目を見た水元先生は、まあ座りなさい、と大学教員の研究室には必ず置かれている長いソファを指差した。久しぶりに入った研究室は埃っぽくて、黴(かび)の匂いがした。ソファには何十枚もの印刷された論文の複写が散らばっているだけでなく、表紙の日焼けした本が大量に積み上げられていた。足の踏み場がない、という表現が、足をつけるスペースすらないことを表わす言葉であるとすれば、このときは、お尻の置き場がない、といったところだろうか。ともかく、水元先生の部屋は汚い。大学の先生の研究室は大概汚いが、水元先生の部屋は他の先生たちと比べても本や資料の置き方がとにかく汚い。先生が研究を行う部屋の奥の真ん中に置かれた机を挟み込むようにして左右の壁に固定された本棚はもう、稚拙な表現だけれども、グチャグチャに無秩序に散らかっている。まるで、お城の石垣を積んでいるかのように、棚の中に本たちが上下逆さまであったり横を向いていたり斜めを向いていたりしてギュウギュウに所狭しと押し込まれている。無理やり押し込まれているせいで、基本的に、本の角の端々がいたるところ折れ曲がっている。もうね、本に愛を感じられないと錯覚させられるくらいなんだ。この人が、日本でトップの研究者だと信じられないくらいにね。もちろん彼は本を愛している、言葉もね、つまりは学問をね。ともかく僕は、散らばった文献の小山のふもとの、平坦さが確保されているスペース、つまり本来のソファーの機能を果たしている空間を見つけ出して、そこに腰掛けた。
 すると、水元先生は開口いちばんに言った。
「なあ柴田君。私は来年ドイツに在外研究に行くことになったんだけど、君はどうする?」話をそう切り出した水元先生の声の音(ね)には、年不相応な少年っぽさ、純粋さが含まれていた。
「どうする、ですか」僕は会話に困った時にはオウム返しをする癖がある。
「いやな。柴田君は修士に入ってから、この春でもう5年目だっけ?今学期も復学しなかったしどうするつもりかと思ってね。今年も修論を書けないとなれば君はもう来年で6年目だね。ずっと休学してるし、どうなんだろうと思ってな」
「まあ体調は幾分、良くなりました」
「そう、幾分ね。それは良かった」と水元先生は両ひざに視線を落として呟くように言った。そしてふっと顔を上げた。「いやあ、ちょうどタイミング良く留学に行けることになってな。もう年も年だし、このまま定年まで大学行政ばっかりやらされて大学教員生活も終わりかと思ってたけど、運が私に回ってきたのだ」
「それは、本当によかったですね。おめでとうございます」先生が僕をわざわざ呼び出して何を言いたいのか、この時点ではまだうまく掴めないままそう返事した。僕のこれからの話と先生の留学の話がどう繋がるのだろう。僕もいちおう法学を学ぶ大学院生なのだから、多少なりとも物事を論理的に考える癖がある。法学部では、法学と政治学を同じくらいの熱意で勉強してきたつもりだった。大学院でもある出来事が生じたことが原因で休学するまでは。なので論理的にモノを考える癖がある、ちょっとは。だから、僕の話と先生の留学の話がどうリンクするのかさっぱり掴めなかった。でも水元先生はあまりにも率直な人だからすぐに理由がわかった。
「実はな、君には言いにくいんだけど、修士で指導中の院生をほったらかしにして留学に行くのはどうなんだ、と教授会の後に言ってきた奴がおったんだよ。ほらっ、社会保障法の永田先生」
「はあ……」僕の声音が自分でもわかるくらい曇ってゆく。
「そうなんだ。お節介な永田先生が、柴田君がまだ大学院にいるにもかかわらず、自分だけ留学に行くのはどうなんだ、とわざわざ言ってきたんだ」
「はあ、そうですか……」ほとんどため息みたいな声が出る。
「そうなんだよ柴田君。だからね、柴田君、来年はどうするつもりか君に尋ねようと思ってね。単刀直入に言おう。留学はちょうど1年後の4月から行く。でも君は前期も休学が決まったし修論を今年中に書けそうな見込みはまったく伝わってこない。来年の4月に復学するとしても、君は修士課程に入って6年目になる。そろそろ自分の将来を真剣に考えてみたらどうか?」
「……辞めろってことですか?」感情を抑えて平静を装いながら尋ねた。
「いや、そうは言ってない。そんな酷いことを言うわけないじゃないか。自分の院生に退学を迫るなんて。そう。あれもこれもぜんぶ世話焼きの永田先生が悪いんだ。何しろ数ある法学のなかでも社会保障法を研究してきた根っからの人権派だからね」と水元先生は両手を挙げてバンザイのようなジェスチャーを示しながら言葉をつづけた。「永田先生は研究ばっかりしてる人だから、要は、教育のことを何もわかってないのよ。だから、私みたいに柴田君を指導する教員の気持ちがわからんのよね。院生を持つってことは大変なんだから」と水元先生は自分の言葉に頷きながら話し続けた。「やっぱりね、院生を受け持った経験の少ない永田先生みたいな研究重視の人には何も言われたくないね。こっちもさ、自分の研究時間の隙間を縫って苦労しながら君みたいな院生を指導してきたんだからさ」と水元先生はウィンクした。

 僕は唖然とした。先生の仕草に唖然とさせられた。そのウィンクに唖然とさせられたのだった。そのウィンクには水元先生の隠微な、複雑な感情が滲み出ていた。その仕草の合間も先生の左目はずっと開いていた。その目は、まるで自分はこれまで指導教授として十分に指導してきただろとexcuseを求めているかのようだった。らしくなかった。その視線にさらされながら僕は、この人のもとで研究がしたくて大学院に来てしまったことを初めて心の底から後悔した。そして、先生のために昨夜から用意していた言葉が頭から急速に失われていくのを感じた。

 ナツミがベッドから身体を起こした。
「可哀そうに。それで連絡してきたんだ、仕事が終わったばかりのわたしに。スマフォから聞こえたあなたの声、おかしかったもの」
「ありがとう。動揺してしまったんだ。目の前に自分がいるのに、『院生を持つってことは大変なんだから』なんてことを言われるとは思ってなかったから。あまりにも直接的すぎた。でもそれは仕方ない、事実さ」
「でもあなたは少なからず傷ついた。ひどいわ。しかも水元先生はあなたを傷つけた言葉を発したことを永田先生のせいにしようとした」そう相槌を打ってくれたナツミの瞳に錆びてしまったコインのようなヒンヤリとしたものが宿ったように見えた気がした。ナツミは僕に質問を続けた。「それで、どう言ったの?」
「いや、何も言えなかった。自分に落胆したし、過去の出来事をその場で思い出して怒りもわいてきた。でも怒っても仕方のない気がした。世の中には仕方のないことがあることを僕はもう知っている。怒る気力さえ起きなかったんだ。言葉が出てこなかったんだよ。そして何かが失われた気がした」
「ショックね、可哀そうに」と言ったナツミがベッドから立ち上がった。落ちそうなまぶたを指でこすりながらスツールの傍に近づいてくる彼女。彼女は僕の顔を覗き込むように見ると、「可哀そうに」と僕の手をとるように握りしめるとそこに唇を寄せた。
「ありがとう」僕はナツミの柔らかな、あたたかな、ふんわりとした口づけの感触を手の甲にうけとり感じながら彼女の瞳を見つめ返す。夜勤明けのナツミ。疲労困憊になっているのが顔から滲み出ているガールフレンド。僕の手を握ってくれたナツミの手に視線を落とすと、――口づけをうけた僕のとは違って――彼女の手の甲には皮膚にところどころ赤みができていて、節くれだって、そして、素肌がかさついている。仕事のせいだろう。そんなナツミの身体を通じてつたわってくるぬくもりを感じながら、僕は研究室での話を先へと進めた。

 研究室の中で水元先生のウィンクに唖然として言葉を失った僕の表情に気づいたのか、先生はさすがに焦った素振りで、今日中に決めてくれってわけじゃない、君がまだ院にいたいのならいてくれたらいいさ、と取り繕うように言った。それで会話は終わった。去り際、水元先生は、何か言いたいことや質問はあるかと尋ねてきた。僕は首を振って、研究室を出た。

「でも。言いたいことがあったわけでしょう?」スツールの傍に立ったままのナツミの手のひらが僕の指に絡みついてくる。
「言いたいことは……あったはず。でもねさっきも言ったけど、口に出したかったはずの言葉が頭から消えてしまったんだ」
「酷いことを言われたら、誰だってそうなるわ。わたしにも経験がある。あまりにも理不尽な言葉を投げつけられたら、それを受けとめさせられるこちらの言葉が奪われることになる」過去に起きた出来事を思い出してしまったかのようにナツミのつぶらな瞳が細められる。
「ああ。まさに言い得て妙だと思う。こちらの言葉が奪われる」僕はナツミの言葉を繰り返す。今度は、会話に行き詰ったことが原因でオウム返しをしたわけじゃない。
「大学院を辞めるように強いるなんてひどいわ」ナツミの声が部屋に響く。
「うん。でも、たぶんそうじゃないんだ、精確に言えば」と僕は言いかける。
「どういうこと?」ナツミがわからないといった顔をした。
「僕は実のところ、研究の道を諦めるようにと水元先生から引導を渡されることを覚悟していたんだ、昨日メールが届いた時点でね。昨夜、この部屋で夜勤に出る直前の君と会った時点でね。だから、大学を辞めるようにと示唆されたことはそんなにショックじゃなかった。覚悟していたから」
「ああ、なるほど」とナツミは相槌を打った。彼女は賢い人だ。僕はもう彼女と2年付き合っているけれども、彼女の洞察には驚かされる。その聡明さのおかげで僕は生きてられた。
「うん。精確に言えば、水元先生が論理的じゃないことを言ったことにショックを受けたんだと思う。だって、水元先生の留学の話と、僕が大学院に残り続けるかどうかは、論理的には別の話だろう。論理的には、水元先生がドイツに行ったって今時、ZoomやTeamsが使えるんだから、海外からでも指導はできるはず。しかもその話をした動機は永田先生の親切な言葉がきっかけだった。僕は、水元先生がもっと論理的な人だと信じていたんだ」
「信じていた」ナツミが僕の言葉を復唱する。「そう信じていたことが失われてしまったということね」とナツミが言葉を継いだ。
「そう。たぶん、そうだと思う。僕は水元先生が好きだったんだ。もちろん、もともと変わっていた人だったし、もっと言えば偏屈な人ではあった。大学の食堂で同僚の先生からの挨拶を平気で無視するくらいにね。でもね。水元先生ってのは本当に論理的な考え方をする、知的に誠実な人だったんだ。例えば、さっき挙げたイェーリング。水元先生は、イェーリングの理論を本当に知り尽くしている。ひょっとしたらイェーリング本人よりも彼のことを知っているかもしれない。水元先生は過去の資料の原文テキストを一文ずつノートにわざわざ逐語訳していって、イェーリングの思考の深いところまで降りてゆく。ドイツ語を日本語に翻訳しながら、イェーリングがドイツ語をはじめとする外国語によって叙述した法概念、理論が、現在の日本において精確に理解されているか、そして、イェーリングの述べるところの法概念や理論が、これまで過去の学説によって日本語で表現されていたところの法概念や理論にそのままあてはめることができるかを徹底的に検証したんだ。水元先生はその検証を通じて、もともとは外国語によって生成された法概念や理論が、過去の日本の法学者らが日本語に翻訳した際に誤った理解の仕方をしてきたことを指摘したんだ。もうちょっと説明すると、19世紀のドイツの法学が日本の近代化のうねりをきっかけに輸入された時に、当時の日本の学者たちが学問的に誤って理解したことで持ち込まれてしまったドイツの概念や理論を、水元先生は過去の日本の研究者たちの理解には誤りがあるぞ、と訂正しつつ注釈をつけていったわけなんだ。そのようにして、水元先生はイェーリングの理論を精確に初めて日本に紹介した。『権利のための闘争』も先生によって精確に読みなおされるかたちで改めて紹介されたもののひとつ。先生はそのようにして精確に理解したイェーリングの理論を応用すれば、日本が現在においても抱えている差し迫った法的問題をも解決することができるのだと主張した。先生が提示した解決アプローチは理論的に非の打ち所がなく、そしてあまりにもエレガントだった。話が専門的かつ難解になるからこれ以上の深入りは避けるけれども、ともかく、水元先生は誠実に文献へと向き合い、きわめて精緻に、かつ、論理的にイェーリングの理論の深みに降りていった。水元先生のドイツ法の理解には、僕の知れる限りだけれども、非論理的なものはほとんどまったく見あたらない。水元先生は、ある意味では、イェーリングよりも論理的だといえる。というのも、水元先生はイェーリングの学説の中で理論的整合性のとれていない点をそつなく指摘した。また、先生はイェーリングのテキストを読むだけではあまり理解できなかったところは率直に自分の理解不足を認めた。水元先生は知的に誠実なんだ。そう、論理的なだけじゃなく、知的に誠実だったんだ」僕は自分がひとりずっと話し続けていることに気づいて、そこで話をとめた。その間に、僕の手のひらをやさしく包むようにふれていたナツミの手は僕の肩にあてられていた。
「水元先生のこと、好きだったんだね」ナツミはポツリと呟くように言った。
「うん。好きだった。たぶん好きだったんだ」僕は頷く。
「でも、水元先生は非論理的な言葉を言い放った。そして、院生のあなたを選ぶのではなく、ドイツに行くことを選んでしまった」ナツミは感情を殺したかのように感じさせられる声音で言った。色のない声。彼女はたまにそういう声で僕に話してくることがある。
「ああ。前者の出来事が僕にとっては決定的だった。そして、たしかに先生は行ってしまう」僕の声がナツミの部屋の壁に吸い込まれる。
「それであなた、これからどうするつもり?」ナツミの声に柔らかさが戻る。
「さあ」僕にだってわからない。これから自分がどうするつもりなのか、僕が自分自身に聞きたい。

 不意に沈黙が部屋に訪れた。
 部屋の小さな四角い窓から、夕焼けの、か細くなった陽の光が差し込んでくる。指導教授との面談を終えた僕は1、2時間ほど街を歩いた後、ナツミの部屋を訪れた。そして夕闇がもう迫っているようだった。
 そうそう、と僕はスツールから立ち上がる。僕の肩に置いたナツミの手に目配せをやることによって、ありがとう、と伝えながら。僕はナツミの部屋の片隅に置いた鞄を取りに行った。スツールから5、6歩のところに置いた鞄から、ある物を取り出す。それを片手で掴むと、ナツミに見せるように掲げた。
 僕が手にしたものを見てナツミは小さく首を傾げた。
「何の本?古い本。外国語ね。読めないわ」
「水元先生にとっての導きの書さ。Rudolf von Jheringによる『Der Kampf ums Recht』。この本がイェーリングの『権利のための闘争』だよ」
「表紙が茶色くなってるしなんだか煤(すす)けてるわ」
「ああ。本によっては表紙をさわるだけで手が汚れちゃう。先生は19歳の頃に大学前の古本屋で買ったんだって。でもこれはリプリント版といって再版されたバージョンらしい。先生が教えてくれたことがある」と僕は説明する。僕の予想していたよりも興味を示すナツミに文庫サイズの本を渡す。
「何が書いてあるのかさっぱり分からないわ」ナツミは受け取った本をパラパラとめくる。途中、彼女は顔をしかめた。黴(カビ)の匂いが鼻腔を突いたのかもしれない。
「ああ。ドイツ語だからね。でも実のところ僕にもよくわからない」
「でも、あなたドイツ語は読めるんでしょう?それに、この本についても勉強してたんでしょ?」ナツミは不思議そうな顔で尋ねた。
「精確にいえば大学院ではイェーリングを研究対象にしてたわけじゃないけど、まあ言い訳はできないね。正直なところ、僕にはイェーリングやイェリネックやサヴィニーといった法学者たちの理論を十分に理解するための力がなかった」
「だから留年したの?」ナツミは首を傾げたままそう尋ねてきた。
「そうかもしれない」率直なナツミの物言いに、むしろ、僕は口元をふっと緩めてしまった。これまで、彼女が直接的にそう尋ねてくることはなかったから。そう、たしかに僕はイェーリングがその本の中で何を言おうとしているのか水元先生のようには理解できなかった。彼らの理論の深淵にまで降りていって、そこから地上に戻ってくることができなかった。水元先生のようには。
「それで、いったい、その本はどうしてきたの?」本のページとページの隙間に風を通すようにパラパラと紙をめくる指の動きをとめたナツミは僕に質問した。
「研究室から出る瞬間に、ふっと本棚に目をやると、扉のすぐ横の棚にこの本が置いてあったんだ。だから持ってきた」
「盗んだってことね」ナツミは感情を読めない声で僕に言った。
「この本が、僕を呼んでいるような気がしたんだ」僕は我ながら言い訳めいてると自覚しながらナツミに説明した。

 ふたたび沈黙がうまれる。
 頭のなかに浮かんでくる言葉が消えては浮かんで消えてということを繰り返しているうちに、不意に、ナツミがキッチンへと向かった。『権利のための闘争』を手にしたまま。キッチンへと歩いていくナツミの華奢な、なで肩のゆるやかな曲線を描く身体のラインを見つめる。彼女はこんな精巧な、繊細な身体で、夜勤の仕事をこなしているのか、とふと思う。僕はひょっとしたらナツミのことをあまり知らないのかもしれない。そのナツミがキッチンの引き出しを開け、何かを探している。こちらに背中を向けるナツミが深く息を吐く音が聞こえてきた。彼女の背筋がブルリと震えたのがわかった。
「ナツミ?」と僕は彼女に声をかける。なぜだか胸に一抹の不安を覚えた。
 
 ナツミがこちらを振り向いた。彼女は『権利のための闘争』を片手に握りしめたまま、小さな果物ナイフを手にしていた。ナイフが妖しく、部屋の証明にさらされた、嫌に奇妙な陰影をつくりだして光っている。その妖しい光の影と同じものをナツミがその瞳に宿したような気がした。そして彼女は言った。「あなたは、この本にナイフを突き立てるべきだと思う。自分の尊厳を守るためにも」。そう口にしたナツミはゆっくりとした静かな足取りで僕に歩み寄ってくると、ナイフと本を僕に手渡そうと両手を差し出してきた。彼女は僕の目をしっかりと見据えて、頷いた。

 僕も彼女の目を見つめ返す。数秒、見つめ合う。僕は頷いてみせる。「ありがとう」と彼女に伝える、ナツミに。それから僕は彼女の節くれだった手のひらからナイフと本を素直に受け取った。ありがとう、と僕はもういちど彼女に言う。それから、彼女に胸の内を開けた。
「本が可哀そうだ」ナイフを慎重にスウェット生地のズボンのお尻ポケットにしまいながら僕は率直に彼女に告げた。ナイフの刃先が、薄くて柔らかなスウェットに引っ掛かる感触をお尻に覚える。なぜだか首筋がヒヤリとする。
「でもその本があなたを苦しめているんじゃないの?」彼女の瞳が揺れる。その瞳孔が不自然に見開かれた。チラリと妖しく光ったような気がした。
「もういいんだ。僕はこの本を傷つけたくない」僕は静かに言う。僕は、ナツミのいつのまにか冷えてしまっている指に、むしろ、自分の指を絡ませる。彼女の柔らかな手は、やはり、カサついた肌に包まれている。その肌の乾きになぜだか愛おしさを覚えながら僕は、ナツミのほっそりとした腰に腕を回して抱き寄せる。イェーリングの本を片手に持ったまま。彼女を抱き寄せた拍子に、ナイフが僕のお尻ポケットの中でひとりでに動く。
「僕はこの本を傷つけたくないんだ。先生のことを傷つけたくもない。明日いちばんに大学に行って水元先生に会いに行こうと思う。謝るんだ。研究室から出ようとした瞬間、この本に後ろ髪を引かれて呼ばれた気がして、勝手に持ち去ってしまったのだと説明する」
「もっと本当は、あの人に言いたかったことがあったんじゃないの?それであなたは納得するの?」僕の腕に抱き寄せられたナツミはお互いの息も吹きかかる距離で試すような挑戦的な目で僕の目を見た。なぜナツミがそんな目で僕を見たのかわからない。その視線を受け止めながら僕はポケットに収めた果物ナイフの重みをお尻に感じる。その刃先が僕のズボンの生地を破ってしまっていてもおかしくない。
「納得なんてしていないさ。でも僕は、人を傷つけるような行為は、もう、もうしたくない。僕は人を恨みながら生きていきたくない」
「この本をナイフで突き刺して散り散りになってしまうくらい破ってしまったら、救われるような気分になれるかもしれないとしても?」ナツミの吐息が僕の顔に吹きかかる。ミントの、ほどよい香りがした。ナツミの柔らかな唇にいますぐ口づけをしたい欲求に襲われる。彼女の言葉を自分の唇で塞いで栓をしてしまいたい衝動。あるいは、彼女に求めることで自分の傷口を覆いたかったのかもしれない。
 でも、その口を自ら閉じる前に僕には言わなければならない言葉が浮かんできた。「たとえそれで自分の鬱憤を晴らすことができるかもしれないとしても、僕はこの本を傷つけたくないんだ。その行為は、水元先生だけでなく僕自身をも傷つける意味を併せもつことになる気がする」僕はナツミの瞳を見つめながら説明する。
「でも、彼があなたにした、他の酷いことをわたしは知っている」ナツミの潤んだ唇がこちらに寄ってくる。
「ああ。でもそれは僕の主観かもしれない。いや彼は本当に理不尽なことをしたこともあると思う。だけど、僕はたとえ自分が傷つけられたからといって、人を傷つけることを正当化する人間にはなりたくないんだ。僕は自分がやられたことやそれに近いことをやり返すような人間にはなりたくない」
「でも、あなたにしたことと同じことを他の学生に彼はするかもしれない」そう僕に迫るように告げるナツミは、まるで彼女が現実に痛みを感じているかのように悲痛な表情を浮かべた。
「そうかもしれない。あるいはそうかもしれない。だけど、だからといって、ナイフを使って人を傷つけることを正しい行為のように語る自分にはなりたくないんだ」
「でも、その行為によってあなたは救われるかもしれない。他の誰かも救われることになるかもしれない」血の気の引いた、いつにも増してこめかみに静脈を浮かび上がらせたナツミは言った。僕からナイフと本を取り上げられたナツミの手持ち無沙汰となった指は、静かに小刻みに震えている。
「ナツミ。ナイフで誰かを傷つける行為が正当化されうるかという問題と、水元先生が僕や誰か他の人間を傷つけた行為の責任を彼に取らせるかという問題は、論理的に別の問題だ」
「同じ問題よ」ナツミは強い口調で言った。
「ナツミ、それは違う。論理的にまったく峻別できる問題だ。もし僕が、先生に責任を取らせるためにナイフを使ってしまったら、大学院で何年も過ごした僕の時間はすべて無駄になってしまう。僕はただ純粋に、もっと賢くなりたくて大学院に行ったんだ。ナイフを使って論理を軽くみて踏み躙ってしまえば、そこで過ごした時間が、本当の意味で、無駄になってしまう気がする。そして、彼と闘うにしても、僕たちは公正な手続をとらなきゃいけない。たとえそれによってよりハードな目に遭うとしても」
「でもあなたはこれから苦しむかもしれない。あなたの人生はこれからも続いていくのに、苦しみが続いていくかもしれない。彼の残したものがあなたを傷つけ続けることになるかもしれない」ナツミの声が微かに震える。彼女は食い入るように、なぜだか僕にすがる目をぶつけてきた。
「そうかもしれない」と僕は頷く。ナイフの鋭い刃先がズボンと下着ごしに尻肌に食い込んでいるのを感じる。僕はナツミの繊細に研ぎ澄まされた鋭利な視線から逃げずに彼女の瞳をしっかりと見返す。伝えなければならない。ありがとう、ナツミ。
「ありがとう。君が僕の傍にいてくれたおかげで、この2年間生きてこられたんだ。いつも僕の気持ちに寄り添ってくれてありがとう。でも僕はもう、何かを傷つけながら生きていきたくないんだ。君のことも」
「わたしはあなたの力になりたいだけなの」ナツミの瞳に浮かんでいた隠微な影が仄かに揺らぎ薄らいだ。
「わかってる。でも僕は、君みたいに優しい人にナイフを持たせてしまった」僕は言う。出逢ってからナツミはずっと賢い女性だった。彼女の聡明さのおかげで会話はいつもつねによどみなく進んだ。その賢さに甘えるかたちで僕は彼女を利用してきたのだと思う。もう彼女のことを利用してはいけないし、彼女の心を犯してはいけない。
「ナイフなんて必要ないんだ。君があんなふうにナイフを僕のために持ち出す必要はないんだ。とくに君みたいな善良な人が。君には相応しくない。そして、たぶん僕にも。僕たちには必要ないんだ」僕は諭すようにナツミに語りかける。辛抱強く。ゆっくりと。そして僕にはまだ言わなくちゃいけない言葉があった。声を絞り出す。「君は僕なんかといちゃダメだ。僕といっしょに行き場の失った感情のたまりである沼の底へと落ちてゆく必要はなかったんだ」
「あなたの力になりたかっただけなの」同じ言葉を繰り返すナツミの声が震える。
「僕のせいだ。でも、ありがとう」
「ちがう、あなたのせいじゃない」ナツミの瞳から、その瞼(まぶた)という感情のコップの縁(ふち)から、ひとかけらの涙がポトリと溢(あふ)れた。彼女の瞳に宿っていた影はもう消えていた。そのつぶらな瞳からの、部屋の照明の光さえも透き通るような透明の涙がキラキラと輝きながらナツミの乾燥した頬を濡らし、床に零れ落ちていった。まるで大気圏の中で燃え尽きる一瞬の流れ星が描くような筋がナツミの右頬に残る。美しい跡(あと)だった。彼女の頬にできあがった涙の跡(あと)を、僕は指でなぞる。まだあたたかい。彼女の頬をつたうのは、その一粒の涙だけだった。指先に残る感触。僕は指先に残る新鮮なあたたかな感触と同じものを自分の瞳の奥に感じた。
「ナツミ、君は僕みたいな人間といちゃダメだったんだ」
「寂しくなるわ」ナツミはすでに僕の言葉からすでに読み取ったようだった。「ごめんね柴田君。あなたの力になりたかった」ナツミは抑揚を欠いた声で僕の耳元に囁いた。
 その言葉を紡いだ柔らかな唇の熱を、僕は感じとる。僕のすぐ近くにある。彼女と口づけを交わしたい欲求が襲ってくる。でも僕はそうしちゃいけない。僕自身のための利己的な、無責任な、刹那的な愛のために、ナツミの心や時間を損なってはいけない。僕は耐えた。欲求を堪えて言った。「謝らなきゃいけないのは僕だ。ごめん。君はもう十分すぎるくらい助けてくれたよ。この2年間僕はヒモ同然の生活を送ってきた。僕は生活を立て直すつもりだ」僕は、もし生活を立て直せたら、と安易な約束を口にするのを寸前のところで喉奥に呑み込んだ。
「これからどうするつもり?」ナツミは唇までをも小刻みに震わせている。
「わからない」さっきも受けた質問だった。でも答えは変わらない。その答えは僕にだってわからない。これから自分がどうするつもりなのか、どこに向かっていくのか、僕自身にもわからない。でも。でも、少なくとも水元先生の研究室には必ず行かなければならない。この本を返さなければならない。水元先生と顔をあわせて話さなくちゃならない。口にしなくちゃいけない言葉がある。僕はナツミに初めて答えた。「行けるところまで行くよ」
 


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