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気持ちに寄り添う人でありたい

常々思っていることがあって、それは、私は「気持ち」に寄り添える人でいたいということだ。

これまで25年生きてきて、世の中で起こっている色々なことを、少ないながらも見て、知ってきた。その中で、今自分にできること、みんなの力で変えていけることがたくさんあることを知った。でもそれと同時に、どうしたって解決できないことがあることも知った。

世の中から犯罪をゼロにするのは恐らく不可能だし、いじめや虐待に苦しむ人全員の痛みに気付いて救い出すのもなかなか難しい。これだけ広い、想像もできないほどたくさんの人が暮らすこの世界では、どうしてもどこかで抜け道を通って犯罪が起こってしまったり、運悪く誰にも気づかれずに痛みを抱えてしまう人が生れてしまったりするんだと思う。すべての人を救えたらどんなに良いことかと思うけれど、簡単にそれができないから、この世界ではたくさんの人が状況を打破するために声を上げたり、他者の力になるべく自分のできることを探して駆け回っているのだろう。現実社会に「すべて」と「絶対」はきっと存在しない。

それでも、私は私のできる限りの力を尽くして、誰かの力になりたいと思う。

全ての人を救うことは不可能だ。だから、この世の中の基本的な考え方として、できるだけ多くの人の「利益」になる道を選んで進むようにできているように感じる。高校の頃の倫理政経の授業で、「最大多数の最大幸福」という言葉を習ったことを思い出す。できるだけ多くの人が、できるだけ大きな幸福を得るように動く。たしかに何か行動を起こすときの道の選び方として、ある程度有効な原則なのかもしれない。でもその場合、多数から取りこぼされた少数の人たちはどうなるのだろうか。その人たちの気持ちはどこへ行くのだろうか。

皆が幸福の最大化の道を選んだ時、それでも取りこぼされた人たちの気持ちに寄り添う人でありたいと思う。「気持ち」というものは、特に現代の社会では蔑ろにされがちであると感じる。効率を重視して色々なものが合理化され、こうすればもっと便利になる、こうすればもっと経済的、もっと、もっと、そんな流れの中で行き場をなくした「気持ち」がたくさんあると思う。

世の中を回していくためには、もちろん効率や合理化が必要だ。そういったものを追求してきた人たちがいるおかげで、暮らしやすい世の中になった部分は多大にある。でも、その一方で道に迷った誰かの気持ちに寄り添う人が絶対に必要なんだと思う。途方に暮れて絶望しても、分かってくれる、あるいは分かろうとしてくれる人がいると知るだけで、気持ちが落ち着いたり救われることはきっとある。

「偽善者」、「正直者が馬鹿を見る」、そうやって笑われてもいいから、私は小さな痛みに寄り添える人でいたい。私の声は決して大きくないし、上手く世の中を渡っていく術もないけれど、その気持ちだけはいつも心に灯していたいと思う。誰かの支えになれますようにと、願っている。

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